【筑摩書房】
『チューバはうたう』

瀬川深著 



 たとえば、「趣味は読書です」というのは、さほどおかしなことではない。とくに尊敬されるようなことでもないが、とくに非難されるべきものでもない。その細部を突っ込んでいかないかぎりはいたって普通の趣味であり、むしろ「音楽鑑賞」と同様、無趣味の代名詞とさえ言われている程度のものだ。だが、「趣味は豆本をつくることです」ということになると、事情は異なってくる。

 本を読むという行為は、学校教育によって識字率がきわめて高い今の日本においては、さほど特別な技術が必要なわけではない。しかし、豆本をつくるという行為には、多少なりとも技術が必要となってくる。少なくとも、誰にでも簡単にできる、というものではないはずだ。しかも、たんなる「読書」とは違って、豆本づくりは趣味としてはけっしてメジャーとは言えないところがある。知らない人にとっては、そもそも「豆本」とは何なのか、というところから説明しなければならないのだ。それゆえに、豆本づくりが趣味の人は、そのマイナーさゆえに、ときに周囲から奇異の目で見られることを覚悟しなければならない。とくに、その趣味への耽溺がたんなる「趣味」の範囲を超えるようなものであれば、なおさらのことだ。

 趣味というのは、本来は純粋にその人の好きなことであり、またその人の個性にもつながっていくものである。だが、人が相手に自身の趣味を語るとき、そこに多少なりとも見栄えの良さといった思惑が絡んでくることは避けられない。「テニスをやっている」とか「バンドをやっている」とかいうのは、いかにも格好のいいメジャーな趣味だ。だがそれゆえに、趣味とは言いながら、じつのところ自分が好きかどうかといったこととは関係なく、人にどのように見られたいか、ということがすべてになってしまいがちなところがある。何かを長くつづけていくということは、けっして「趣味」のひと言で片づけられるような、単純なものではないはずなのだ。

 チューバを吹くということには、楽しみだけじゃ説明できない一種の偏執がある。好きだから吹いているんだとか、チューバはステキな楽器だよとかいう言い方は、一面では正しいのだろうけど、チューバを吹くという行為のすべてを説明しているとは思えない。

 本書『チューバはうたう』に登場する一人称の語り手は、チューバを吹いている。チューバとは、金管楽器の中でもとくに図体の大きく、小回りの利かないことおびただしい、金属の管の怪物のような楽器である。しかも、語り手はどこかのブラスバンドやオーケストラに所属しているわけではない。ごくふつうの製薬会社に勤める、二十六歳のOLだ。つまり、彼女は純粋に趣味の範囲で自前のチューバもっており、純粋に趣味でそのチューバを吹き鳴らしている、ということになる。

 言うまでもないことであるが、チューバを吹くというのは、たんなる趣味にとどめるには、あまりにもマイナーなこだわりであり、そして語り手自身もまた、そのマイナーさを自覚している。本書は表題作を含む三つの作品が掲載されているが、いずれも人に語るにはやっかいな趣味やライフワークをもっていて、しかも、人並みはずれたひたむきさでそれらの事柄に打ち込んでいるところがある。本書は言ってみれば、そうしたいっぷう変わったこだわりに対して、何らかの理由づけをおこなうために書かれた作品集だと言うことができる。

 そうした傾向がもっとも強いのが、表題作でもある『チューバはうたう』で、物語としては、さほど大きな展開や山場が用意されているというわけではない。「体がでかいから」という理由で中学校の吹奏楽部でチューバを担当することになったという馴れ初めから、そこにいたチューバ原理主義の先輩の話など、過去の出来事をまじえつつ、合奏においてはほとんどがベース音を担当する楽器でありながら、きわめて高音域の音も自在に出すことができ、またチューバのベース音が、合奏の揺るがない土台となって全体を支えているというチューバの特長を紹介しつつ、自分がなぜチューバでなければならないのか、チューバを吹くということと、音楽が好きであるということとがどのように結びつくのか、といった自身の内面を掘り起こしていくような感じで話は進んでいく。

 後に「我樂多樂團」なる一座にスカウトされて、週末に彼らとともにちょっとした公演をおこなうようになり、自分があくまでアマチュアのチューバ吹きであることへの疑問が芽生えたりすることになる『チューバはうたう』は、チューバという風変わりな楽器の魅力とともに、その魅力に惹かれている自分自身にも納得のいくような言葉を思索していこうとする要素があり、それゆえに、ともすると妙に小難しい文章がつづくことになるのだが、他の二作品については、そうした内面よりも、むしろその風変わりなこだわりが周囲にもたらすものが何なのか、という視点が主体となっていて興味深い。たとえば『飛天の瞳』では、真偽の定かでない祖父の武勇伝のなかに出てくる、東南アジアのとある島に立ち寄ることになった学生が、たまたまホテルで聴いた大衆音楽のなかに、祖父の武勇伝を結びつける要素を発見する、というような話となっている。

 マイナーな趣味へのこだわりというものは、ともすると周囲の理解の得られないものであり、それゆえにその人は孤独のなかでこつこつと作業をつづけていかなければならなくなるものであるが、『百万の星の孤独』は、まさにそうした半生をおくってきた人が登場する。彼は自分でプラネタリウムをつくるということにこだわりつづけた人で、そのために仕事も家庭も手放すことになったのだが、とある地方のお祭のイベントとして、彼のつくったプラネタリウムが上映されるという出来事を中心として、じつにさまざまな立場にいる人たちが、なんらかの形でプラネタリウムのことを知り、それがもたらす星々を見るために集ってくるという、ちょっとした群像劇仕立ての物語となっている。

 物語の中心にいるはずの、ひとりでプラネタリウムをつくった人は、あまり自身のことやプラネタリウムのことは語らない。だが、その人のプラネタリウムへの思い入れとは無関係なところで、多くの人たち――お互いに、顔すら知らないような人たちが集まり、プラネタリウムはどんな立場の人たちにも、同じような星々の姿を映し出していく。そこには、プラネタリウムの男の個人的な幸せとかそういったものを超えた何かが、たしかに書かれている。

 チューバにしろ、プラネタリウムにしろ、人に語るにはあまりにマイナーで、それゆえに理解されにくい趣味であり、ライフワークでもある。だが、そんな彼らの姿が単純に不幸かと言えばそんなことはないし、また彼らが周囲のことを考えない、唯我独尊的な性格というわけでもない。なかなか言葉にすることの難しいものを、あえて物語という形にとらえようとした本書の言葉に、ぜひ耳を傾けてもらいたい。(2009.08.08)

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