【小学館】
『ミシン』

嶽本野ばら著 

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 私がインターネット上で本の書評をはじめてからもうずいぶんになるが、たとえば星の数の多さや100点中の何点といった、紹介した本が面白いのか面白くないのか、面白いのであればどれくらい面白いのかがぱっと見でわかるような評価点をつけない、というサイトの方針は昔も今も変わらないし、おそらくこれからも変わることはないだろう。なぜなら、ある本に対する評価というものは、当人がその本を最後まで読むことでしか判断できない、というのが私の読書に対する一貫した考え方であり、もし私が紹介する本になんらかの評価点をつけはじめたとしたら、それはもう私の知る「八方美人な書評ページ」とはまったく違ったサイトになってしまうからである。

 読んだ本に対して私自身の思うところや感じることを文章にして書くことは、あくまで私の個人的意見の主張でしかない。だが評価点となると、目に見える数値的なものが使われているがゆえに、本来であれば読んだ人の感覚でしかないその本の評価が、ときに誰にでも通用する相対的なものとして判断される危険性があるのだ。そしてそれは、私の読書に対する考え方とは相容れないものでもある。私にとって、読んだ本の評価点をつけないという態度は、一種の矜持ともいうべきものなのだ。

 しかしながら、では私自身が読みたい本を探すときに、そうした本紹介サイトの評価点をまったく参考にしないのかと言えば、やはり参考にしてしまう自分がいることもよく知っている。同じサイトのなかで、星ひとつの本と、星五つの本の、どちらに食指が動かされるかといえば、やはり星五つの本のほうなのだ。現在、星の数ほども本が溢れ、今後もますます出版点数が増えていきそうなこの状況のなかで、ひとりの人間が読むことのできる本にかぎりがある以上、できれば駄作ではなく良い本を効率よく読んでいきたいというニーズは誰しもが少なからずもっているものである。そして、評価点というシステムは、そうした時代のニーズをじつによくとらえたものでもある。

 自分のサイトに評価点をつけないことを矜持と言いながら、いっぽうで本を選ぶさいに他ならぬ評価点を参考にしてしまう私の態度は、はたして狡猾であろうか。なるほど、人によってはそれは当然の妥協であり、あるいは世の中をうまく渡っていくための知恵だという人もいるだろう。だが、どちらにしろ、そうすることによって少しでも面白そうな本と出会える可能性が高まるのであれば、おそらくこれからも、私は本選びに評価点を利用しつづけることになるだろう。なぜなら、そうした矜持にあまりにも純粋でありつづけようとすれば、私はけっきょくのところ、このサイトも、そして本を読むこと自体も、あきらめなければならなくなるからである。

 本書『ミシン』は、表題作のほかに『世界の終わりという名の雑貨店』という作品の二作を収めた作品集であるが、いずれの作品にも共通して言えるのは、今という時代を生きることに対する矜持にあまりに純粋であろうとしすぎたがゆえに、生きることそのものに行き詰ってしまった人たちの物語だということである。『世界の終わりという名の雑貨店』の語り手は、京都のとある古いビルでライター業を営んでいたものの、そのビルのオーナーの意向を受けて「世界の終わり」という名の雑貨店をはじめることになるのだが、その店はおよそ商売で儲けようとか、世の中に役立つ品物を売りたいとかいう意図のない、言ってみれば経済的に何の意味もないお店である。この一点を見ても、本書の意図が今の世の中の潮流からはずれたところに照準を合わせていることがわかることと思う。

 今情報誌から情報を得ようとする読者は、単に得がしたいだけなのです。彼らの中で知ることは、イコール得をすることなのです。得をする為に必要なものは、情報ではなく情報量なのです。――(中略)――僕はその即物的な考えを、とても下品だと思います。

(『世界の終わりという名の雑貨店』より)

『ミシン』の語り手である女の子も、古い少女小説、とくに吉屋信子の『花物語』に感化されて、自身もそこに描かれているような「乙女」として生きることを決意する。彼女もまた、今の流行を追いかけていくという時流になじむことのできない少女として描かれているが、彼女はもうひとつ、自分がけっしてかわいい女の子ではない、なりえないことを誰よりも意識している。こうした特徴をもつキャラクターは、『世界の終わりという名の雑貨店』でも、語り手と逃避行に走る少女という形で登場する。彼女の場合、顔に大きな痣がある、という点で、自分がけっしてかわいいわけではない、どんなおしゃれも持って生まれた痣によって無意味なものとされてしまうことを意識している。

 人は基本的には自由に行動することを許されていて、殺人といった、その行為が直接的に相手の自由をさまたげるようなものでないかぎり、何をしてもいいはずである。だが、何をしてもいいと言ったところで、本当に何もかも自分の思いどおりに行動できる人はそうそう多くはない。世間一般の常識、法律、倫理観――私たちの行動の自由をさまたげる要素はいくつもあるが、そのなかでももっとも強力なものは、恥の意識である。「こんなことをするなんて、恥ずかしい」という意識は、常に自分の内側から生じてくるものであり、それは少なからずその人を臆病にするものだ。恥知らずな人間の行動は、それゆえに大胆であるとも言えるが、彼女たちが心のうちにかかえている、今の世の中に対する生きがたさは、個人の力でどうにかなるたぐいのものではない。彼女たちが何らかの行動をおこすためには、常識や流行といった、うわべだけのものではない、よりいっそう深い何かが必要なのだ。

 そういう意味では、『ミシン』の語り手にしろ、『世界の終わりという名の雑貨店』で語り手と逃避行に走ることになる、顔に大きな痣をもつ少女にしろ、彼女たちをそれまでの地味で目立たない態度から一転、極端なまでにアクティヴな行動へと走らせたのは、自身の心の奥底に秘められた、ほんのわずかな矜持と呼応するものを見つけたからにほかならない。人一倍強力な「恥の意識」をも覆してしまう彼女たちの、なかば暴走に近い行動は、あるいは事情を知らないあかの他人の目から見れば、ひどく不器用で、醜く映るものであるかもしれない。だからこそ、本書の作品は三人称ではなく一人称で書かれているのだが、それでもなお彼女たちの、けっして打算と結びつかない行動は、ひどく純粋で美しく、そしてひどく儚く見える。それは、花は咲くものの実を結ぶことのない徒花の美しさでもある。

 私のサイトはそれなりの矜持をもって運営しているし、それは私自身の読書に対するこだわりとも結びついている。だが、それが私の生き方そのものにまで影響しているかといえば、おそらくノーと答えなければならないだろう。自らの矜持ゆえに自らを抑圧しつづけ、そして自らの矜持ゆえに今の時代をうまく渡り歩くことができず、まるで徒花のように咲いて散っていった少女たちの、その一瞬のきらめきが、本書には封じ込まれている。(2005.09.08)

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