【講談社】
『弥勒』

篠田節子著 

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 敬虔な祈りの姿は、ときにそれを見る人の心に深い感銘を与えることがある。キリスト教、仏教、イスラム教――この世には数多くの宗教が存在し、数多くの信者がそれらの宗教を心の拠り所にして暮らしているが、宗教・宗派の如何に関係なく、何かに祈りを捧げることができる人は、自分という存在が、自分以外のあらゆるものの力によって生かされている、という、現代の私たちがともすると忘れてしまう、あたり前の事実をわきまえている人だと言うことができるだろう。宗教というと、現代の日本などではとかく胡散臭く、非現実的で意味のないもの、というイメージが強いが、そんな私たちでさえ、なかば習慣のように食事の前には「いただきます」と言い、食事を終えれば「ごちそうさま」と言う――たとえ、その言葉自体が、目の前に出された食事にかかわったすべての事物に対する感謝の気持ちをこめた祈りの言葉であることを忘れていたとしても、そうした宗教的な観念は、私たちの生活のあちこちに、ごく当然のものとして受け入れられ、組み込まれているのである。

 どんなに科学技術の恩恵に浴し、知識人的論理主義で凝り固まった人であっても、しょせんは弱く儚い人間でしかない。なるほど、人間が生み出した科学技術は飢えや暗闇や病気といった恐怖を取り除いたのかもしれないし、優れた教育は多少なりともこの世界のしくみを解き明かし、古い迷信を打ち破ったのかもしれない。だが、それでもなお、人間の力ではどうすることもできない事柄の、なんと多いことか。なにより人間は生き物である以上、死からけっして逃れることはできない。その事実を思い知らされたとき、私たちにできるのは、おそらく祈ることだけなのだろう。そして、その祈りのなかにこそ、あるいは人は、神の姿を垣間見るのかもしれない。

 本書『弥勒』に書かれているのは、ある架空の宗教国家で起こった政変の物語であり、人間が人間であるゆえに起こった悲劇の物語でもある。パスキム王国――ヒマラヤ地方にある小国家でありながら、インド・中国の両大国の緩衝地として微妙なバランスを保ち、主権と独自の文化を守りとおしてきたこの国は、仏教、ヒンドゥー教、チベット密教などの宗教を柔軟に受け入れつつ、装飾的で神秘的な「パスキム様式」と呼ばれる美麗な宗教美術を発展させてきた。以前からその造形美に深い関心を示し、なにより国王イシェ・サーカルの、自国の民族文化を保護し、あくまで中立国たらんとするその政策姿勢に今の日本にはない精神文化の可能性を見出した永岡英彰は、同じくパスキムに詳しく、パスキム人を妻にもつ桧渡から、当のパスキム王国でクーデターが発生し、貴重な文化遺産が破壊されようとしている事実を知り、日本の関心をパスキムに向けるべくパスキム美術展を仕掛ける計画を立てつつ、クーデター後閉鎖状態にあるパスキムへの密入国を決意する。情報的にも完全に孤立しているパスキムで、いったいなにが起こっているのか――パスキムの首都カターで永岡が見たものは、廃墟と化した街並と、おびただしい数の僧侶の死体だった……。

 飢えも貧困もなく、身分の貴賎も差別もない、すべての人々が満ち足りて幸福な生活をおくることができる、平等で水平的な世界――そういった夢の世界のことを、人は理想郷と言い、ユートピアと呼ぶ。パスキム解放戦線の兵士に捕らえられ、有無を言わさず強制労働を課せられていた永岡は、パスキム解放戦線の指導者であり、もと国王の側近でもあったラクパ・ゲルツェンと面会する機会を得るが、その口から語られるのは、僧侶の大量虐殺や文化破壊を指導した人物とはまるでかけ離れた、万人が平等であるべき理想郷のヴィジョンであり、それが実現するまで、すべての人たちが味わっている苦難をともに受け入れようという高潔な意志だった。

 それまで永岡が憧れの念とともに見ていた、深く内省的な精神主義に支えられている宗教文化、そしてその象徴とも言える首都カターの、美の極みとも言うべき洗練された街並――それは、国民総生産を上げることのみを目標にし、短期間で豊かになろうと西欧的合理主義を無分別に受け入れた結果、民族固有の伝統や文化の価値が失われようとしている日本の中で生まれ育った永岡個人の主観による、一面的なものの見方に過ぎず、まったく別の側面に立ってみれば、カターでの慈悲深い宗教儀礼や祭典は、たんなる物資の無駄遣いでしかなく、静かに語られる僧侶達の説法も、迷信で人の心を縛りつけ、あらゆる穀物を搾取するための方便と化す。そしてそれは、パスキムの首都カターに比べてあまりにも貧しい――土間に直接むしろを敷いて眠り、痩せた大地からわずかばかりの穀物を収穫し、あるいは家畜を屠殺する穢れた者の烙印を押され、苦いソバ粉を練ったものを主食とする、周辺の村落の立場から見ると、まぎれもない真実となるのである。

 カターに住む上位カーストの人達が生み出す知性と芸術、しかしその裏にある、下位カーストの人たちに対する、差別以前に同じ人間だとさえ思っていない、ある種の冷酷さ――私たちが同じ人間という種でありながら、「文化が違うのだ」と安易に結論づけ、判断を停止してしまうことで目をつぶろうとしてしまう闇の部分に、ゲルツェンは果敢にも戦いを挑んだと言える。そして、過酷な状況下に置かれ、何度も死を覚悟した永岡もまた、サーカルの王制と、ゲルツェンの完全無政府主義、そのどちらが正しいのか、次第に判らなくなってくる。少なくとも、二人とも私利私欲のために動いているわけではなく、どちらもなにより自国の未来、そして国民の未来を真剣に考えているのだ。だが、個人の抱く理想が必ずしも人々に幸福をもたらすわけではないことは、かつての中国における共産主義がもたらした大きな悲劇を見れば明らかだ。あるいは、『キリンヤガ』において、古き伝統を守る生活を固持しようしたコリバの辿った運命を考えてもいいかもしれない。

 パスキム王国は、微妙なバランスの上に成り立っている小国家であると、前述した。それは何も、周辺諸国との関係だけでなく、国内における気候、風土、生活習慣、そして宗教や文化といったありとあらゆる要素が複雑にからみあい、微妙なバランスによって成り立っていたのだと言うことができるだろう。本書によると、パスキムは八世紀ごろからさまざまな文化を受け入れ、それを自国の文化にまで昇華していくことに成功した国だと書かれている。千年以上の長い年月をかけて、バスキムの文化は少しずつ、緩やかに変化を遂げることで、そのバランスを崩すことなくやってきたのだ。

 どんな薬も、一度に大量に摂取すれば、それは毒に変わる。そしてそこにこそ、本書で引き起こされた悲劇の連鎖があった。

 人間の力など、なんとちっぽけなものでしかないのだろう、と本書を読んでそう思わざるを得ない。どんなに努力し、切磋琢磨しても、人ひとりがたどりつける境地など、たかが知れている。それを思うと、「人間はなぜ生きるのか」というありがちなテーマがいやに重く肩にのしかかってくる。救われたい、という願い、万人が幸福になれる世界を創造するという夢は、本当にただの夢物語でしかないのだろうか。

 ――結局のところ、人が向き合うのは、閉塞感と矛盾に満ちた現実だ。――(中略)――理想社会も、そこに人を導いていく絶対原理も存在しない。卑小な現実に対し不完全な判断を下し、その結果を身に引き受ける。判断と行為の、終わりのない修正につぐ修正が、人の一生だ。

 瀬名秀明の『BRAIN VALLEY』やマイクル・コーディの『イエスの遺伝子』など、神の存在を科学的に解明しようとする小説が多いなか、本書はその流れにまっこうから逆らう形で神の概念について表現しようとしている。永岡が本書の最後に達した境地がいかなるものだったのか――本書を読んでぜひ確かめてもらいたい。(2000.03.29)

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