【講談社】
『ミノタウロス』

佐藤亜紀著 



 人間という漢字が「人の間」と書くように、人間を人間たらしめる要素は自身の内にあらかじめ備わっているわけではなく、自分と、自分以外の誰かがいて、そのあいだに成立する関係性によってはじめて人間は人間たりえるのではないか、と考えたことがある。つまり、人間はたったひとりでは人間にはなりえないし、たとえ多くの人たちに囲まれていても、彼らと人間としての関係をたもつことができなければ、自身もまた人間でありつづけることが困難になり、また周囲の人に対しても、自分と同じ人間であるという意識をもつことができなくなるのでは、ということである。

 人間はひとりでは生きてはいけない、とは私がこのサイトの書評を通じて何度か唱えてきたお題目のひとつであるが、より厳密に言うなら、「人間として」生きてはいけない、ということになる。私たちが誰かと友情を築き上げたり、異性と恋に落ち、その人とより深い関係をもちたいと願ったりするのは、自分のことをひとりの人間として見てくれる他者の存在、その関係性が、ほかならぬ自分自身の人間性を高めてくれるものだからに他ならない。自分が誰かにとってのかけがえのない存在である、という認識――それは、人によってはあたり前の感情だと思われる方もいらっしゃるだろう。だが、そのあたり前のことがたもてなかったがゆえに、その人間性を疑うような非道を犯してしまった人間の例は、過去の歴史がいくらでも証明してくれるし、今も枚挙に暇がない。ひとりの人間が「人の間」にありつづけるというのは、私たちが考える以上に難しいことなのかもしれない

 人間の尊厳なぞ糞食らえだ。ぼくたちはみんな、別々の工場で同形の金型から鋳抜かれた部品のように作られる。――(中略)――彼の代わりにぼくがいても、ぼくの代わりに彼がいても、誰も怪しまないし、誰も困らない。

 本書『ミノタウロス』の語り手であるヴァシリ・ペトローヴィチは、ミハイロフカという地に広大な土地をもつ地主の次男坊として生を受ける。この時点で彼の父親は、農場の切り回しと相場によって相当の金持ちとなっており、語り手は衣食住に不自由することのない生活を保障された身分だと言えるが、本書冒頭で語られる、彼の父親がその土地を手に入れることになる顛末は、奇妙極まりないものを読者に感じさせる。それは、前の持ち主がなぜ語り手の父親に土地を譲ろうと思ったのか、なぜ一銭も金を受け取ろうとせず、譲った後に首を括って自殺したのか、その理由がはっきりしていないからに他ならない。だが、重要なのはその顛末の真意を探ることではなく、語り手の生活と身分を支えている土地が、その権利という意味ではけっして不動のものでも、たしかなものでもない、曖昧であやふやな、とらえどころのないものだという、その属性にこそある。

 地面は目に見えるし、手で触れることもできる。だが、それが誰のものであるかという所有の概念は、目には見えない。見えるとしても、ただの紙切れの証文であるとか、そうしたものでしかない。語り手の「人間性」――自分がまぎれもない自分自身であるという意識を支えるものがあるとすれば、その目に見えない土地の所有権ということになるのだが、それがどれだけ脆弱なものであるかは、本書冒頭のエピソードに象徴されている。土地の所有権がなければ、語り手は「ミハイロフカの地主の息子」でなくなるばかりか、過去を遡ればそもそも父親は地主にはなれなかったし、そうでなければキエフから嫁を迎えることもなく、当然のことながら父親は父親ではなく、語り手もこの世に生まれてくることさえなかった、ということになる。そして、そんなふうに考えたとき、土地の所有という権利が人間としての価値を多く左右する本書の世界において、語り手の「人間性」に対する限りない不信の念がぬぐえなくなったとしても、けっして不思議なことではない。

 事実、物語はその後、語り手の自分自身に対する「人間性」に、なにかしらの拠り所を求めてもがくような展開を迎える。ここでひとつはっきりさせなければならないのは、おそらく本書の世界観において、私もふくめた読者があたり前のようにあると思いこみがちな自我の意識が、それほどたしかなものとして定着していないという前提を置いている点である。そのことを端的に示す例として、語り手がキエフの学生だった頃に知り合ったポトツキという青年が、革命について語るエピソードがある。彼はしきりに「労働者による革命」を唱えるが、その労働者というのは、語り手が意識する日雇い、つまりミハイロフカの土地で農作業をする人たちのことを含んでいないのだ。これは、ミハイロフカの青年サークルのメンバーでもあったグラバクやその弟のサヴァにしても同様で、つまり、彼らにとっての「人間性」を有する者というのは、ひどく偏りがあり、限定されてしまったものだということでもある。

 そういう意味で、語り手はまぎれもない自分自身という意識に敏感な早熟さ、より現代的な思考を持ち合わせていたことになるのかもしれないが、そうした哲学的な側面は、本書のなかでは注意深く隠されているし、おそらく語り手自身も意識していない。そして、それゆえに物語としては、ひたすら語り手が人の女に手を出していろいろな人に怨みを買ったあげく、知らないうちに土地の所有権さえも失い、死んだ父親代わりとも言うべきシチェルパートフを殺してミハイロフカを出奔しなければならなくなった、愚かな坊っちゃんというイメージがどうしても先行してしまいがちであるが、たとえば戦場で顔の半分を吹き飛ばされてミハイロフカに戻ってきた兄が、ひたすら女漁りを繰り返すといったエピソードのなかに、人としての顔を失った人間が、それでもなお人間であるために必要なものは何なのか、あるいは、「人間性」と呼ばれるあらゆるものを取り去ったあとに残るものが何なのか、というテーマが含まれており、それゆえに興味深いものがあると言える。

 ここまで語ってくればおわかりかと思うが、本書において物語の筋書きというのは、ほとんど重要なものではない。というよりも、物語性という意味では皆無だとさえ言えるのだが、それでもなお本書に惹かれるものがあるとすれば、ミハイロフカという土地からの出奔が、語り手にとっての自由と結びついている、という点であり、その時点で語り手はもはや何者でもなくなってしまったのだが、まるでそれを補うかのように、無法者として村や小規模な軍の集団を襲い、略奪や殺戮を繰り返していくという展開が意味していることである。それは語り手のなかの、こうした秩序の崩壊した、しかし力がすべてという単純な世界を美しいとさえ感じてしまう心が、私たちのなかにもたしかに存在するという事実を突きつけてくる、ということだ。

 殺戮が? それも少しはある。それ以上に美しいのは、単純な力が単純に行使されることであり、それが何の制約もなしに行なわれることだ。こんなに単純な、こんなに簡単な、こんなに自然なことが、何だって今まで起らずに来たのだろう。

 男女の交わりや暴力、非道な殺戮や大勢の人々の死というものが頻発しながらも、けっして感情に訴えることのない、淡々とした文体が冴えまくっている本書のなかで、語り手は人間になりきることもできず、また獣になりきることもできず、戦争で疲弊した荒野を彷徨いつづけていく。それはちょうど、脱出不可能な迷宮に閉じ込められた半人半獣のミノタウロスをイメージさせるという意味において、本書のタイトルは象徴的だ。「人の間」にありつづけることをやめた人間がたどるべき道――本書はその滑稽で愚かしく、しかしどこかで私たちを怯えさせるものの存在を、このうえなく意識されられるという意味で、まぎれもない傑作である。(2008.04.10)

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