【集英社】
『みのたけの春』

志水辰夫著 



 ひとつの時代が終わりを告げ、あらたな時代が幕を開ける――日本における幕末という時代は、そうした時代の変化がもっとも劇的なうねりをともなって成立したという意味で、人々の心を魅了してやまないものがあるのはたしかであるが、それまであった価値観が大きく揺らいでいく時代というのは、しばしば人々の心を乱し、大きな混乱を引き起こすものでもある。世の中は常に移り変わっていくものであるし、それにともなって私たちの生きる社会も、その価値観も変化を余儀なくされるものであるが、そうした変化が急激に引き起こされれば、当然のことながら人々の心にも大きな不安や戸惑いをもたらすことになる。

 変化すること自体はけっして悪いことではない。だが、人間は社会的な生き物であり、人と人とのあいだにはさまざまなしがらみやつながりがある以上、そうした関係を無視することはできないし、また無理に変えていこうとすれば、そこからかならず何らかの衝突なり摩擦なりが生じることになる。人は長く生きれば生きるほど、それまで保ってきた価値観を一変させることが困難になる。劇的な時代に対応していくためには、よほど柔軟な心の切り替えが必要となってくるわけだが、誰もがそんなふうに変化していけるわけでもなく、またそうしたことがかならずしも良い結果をもたらすわけでもない。

 大きな時代のうねりのなかで、その激流にまどわされることのない大切な何かがあるとすれば、それはいったいどういうものなのか――今回紹介する本書『みのたけの春』には、先の見えない閉塞感のなかで生きる現代の私たちにとっても、ひとつの芯となるべきものを描こうとした作品だと言うことができる。

 この風景のなかに、自分のすべてがあるといまでは思っている。すぎてみれば、人の一生など、それほど重荷なわけがない。変わりばえのしない日々のなかに、なにもかもがふくまれる。大志ばかりがなんで男子の本懐なものか。

 京都から因幡に抜ける山陰道の要所にあたる貞岡領――山が多く、地形の入り組んだこの地方は、かつてはいくつもの銀山を抱える公儀の直轄地として栄えていたが、銀の産出量の減少や、山陰道そのものが脇街道となるといった時代の趨勢とともにさびれていき、天領からも外されるという扱いを受けていた。本書に登場する榊原清吉の家は、「入山衆」と呼ばれる貞岡領内二十一家の郷士(武士と同等の身分をもつ農民)のひとつであったが、先代の残した借金が家計を逼迫していることを知った清吉は、村役人としての家格を捨て、借金返済のために奔走しなければならないという事情をかかえていた。幸いなことに、養蚕で生計を立てるという目論見がなんとか軌道に乗り、借金返済の目途もつきつつあった清吉は、遅ればせながら勉学や武芸の塾に入ることになったものの、自身のなすべきことはあくまで家の建て直しにあるという気持ちから、そうした習い事に熱中することなく、常に一歩身を引く姿勢をとりつづけていた。

 おりしも時は幕末、イギリスなどの諸外国が圧倒的な軍事力で開国を迫り、幕府は朝廷の意向を無視して通商条約を結んだものの、その急激な変化は国内の経済を混乱させ、あちこちで尊王攘夷、倒幕の気炎があがりつつあった。貞岡領の塾でもまた、入山衆としてどのような態度をとるべきなのかで激論が繰り広げられ、時代のうねりがこの地方にも確実に迫っているという雰囲気のなかで、若者たちは誰もが少なからず地に足のつかない、熱に浮かされたような状態にあった。本書を読み進めていくに際して、こうした背景をまずはとらえる必要がある。

 本書には清吉のほかに、物語の核となる人物として諸井民三郎がいる。同じく入山衆の郷士の家の者で、剣術については指南役から「百年に一度の逸材」とまで言われながら、流行病で両親をはじめとする諸井家の大黒柱四人が一度に亡くなるという不幸をきっかけに、家の存続そのものがあやぶまれるという転落ぶりを見せている男でもある。彼は清吉のように経済の才は無きに等しく、借金を重ねたあげく、家財いっさいを失ってなお幼い弟妹を養っていかなければならないという立場にあり、その生来の豪放磊落な性格とは裏腹に、実情はかなり切羽詰まったものを抱えていた。

 ふたりはともに同じ塾に通う友人であり、性格的には正反対のものがありながら、なぜかウマのあうところがあった。そんなある日、清吉の耳に民三郎が刃傷沙汰を起こして逐電したという知らせが届く。よりにもよって代官所の役人を斬ったという。郷士と呼ばれてはいるものの身分のうえでは農民にすぎない。その民三郎が役人を斬ったとなれば、ともすると入山衆そのものの存亡にもかかわってくる。清吉は民三郎を救うべく、彼の行方を追うのだが……。

 本書に登場する人たちは、誰もが多かれ少なかれ時代の流れに翻弄され、大きな苦労や先行きの不安をかかえながら生きていくことを強要された者たちでもある。民三郎に斬られた役人にしても、性格はいかにも感じの悪い人物でありながら、彼もまた時代の流れによってそれまでの身分の保証がたしかなものでなくなり、ことさら旧来の身分の差というもので体裁をたもつしか方法を知らない者だった。そういう意味で、本書の舞台として選んだ幕末という時代は、テーマのうえではこのうえなくふさわしいものだ。だが、そうした激動の時代を描いた作品でありながら、そして物語のなかで民三郎が起こした刃傷事件も、けっしてささいなものではないながら、その後の展開はきわめて地味なものにとどまっている。そしてその点にこそ、著者の書きたかったものが込められていると言える。

 入山衆の成り立ちは戦国時代にまで遡るとされている。鉱山を所有する地であるがゆえに時の権力者からは常に目をつけられ、幕府の支配に対しては忸怩たる思いを募らせてきた一面もある。じじつ、入山衆のなかでもとくに血気盛んな若者たちの一部は、あるいは幕府の立ちなおしのために、あるいは尊王攘夷を旗印に倒幕のために兵を挙げようと故郷を離れていく。そして今回の刃傷沙汰についても、清吉のとりなしによって民三郎の逐電に協力するという意思決定を入山衆の総意として引き出すことに成功する。それは、幕府の力が大きかった以前であれば考えられないものであり、本来であれば民三郎の命運はもちろん、諸井家そのものの命運もその時点で尽きたはずであった。

 時代は確実に変わろうとしている。だが、清吉が見据えている時代の変化は、たとえば幕末の京都で日夜起こっているような、殺し合いや暗殺といった血なまぐさいものではない。それは、武士や郷士の力が弱まり、商人や農民が経済を知り、独自に金を稼ぐことがあたり前になりつつあるという変化である。養蚕の人手を得るために、どのくらいの賃金を与えるべきなのか、いくら以上になると、むしろ人手を増やす方が損になるかといったことを思案しなければならなかった清吉は、そうした変化に敏感な立場にいたと言える。いっぽうの民三郎は、圧倒的な剣技をもちながらも、時代ゆえにその使い道を決定的に誤るという運命を負わされることになる。

 本書を読み進めていくとおのずとわかってくるのだが、この物語には本当の意味での悪人は存在しない。民三郎にしても、もし時代が時代ならば、剣の腕で大成することができたのかもしれない。だが、私たちの人生において「if」はありえない。誰もが現状を見据え、おのおのに与えられたものを手に、その日その日を生きていくしかないのだ。そして、清吉と民三郎の運命を左右することになった決定的な違いが、その点にこそある。

 時代に翻弄され、道を誤り、どうしようもないところまで堕ちていく者と、そうでない者との違いは、はたしてどこにあったのか。たしかに理想を追い、そのために血を流すことさえ厭わなかったにもかかわらず、いつのまにか大切なものが手からすり抜けていくような生き方しかできなくなった者がいるいっぽうで、病気や天災などで理不尽に命を奪われていく人たちもいる。はたしてあなたは、本書の世界で生きる人たちに、どのような想いをいだくことになるのだろうか。(2009.04.12)

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