【講談社】
『新宿ミルク工場』

沙藤一樹著 

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 自分の子どもを虐待する親が存在するという事実は、たとえ情報として知ることはできたとしても、現実にその場に居合わせたことのある人、被害者としての経験をもつ者でなければ、その事実の重さを実感することは難しいだろう。そもそも、両親の多大な愛を受けて育った人たちにしてみれば、児童虐待という事実そのものを想像することさえ難しいことであろうと思う。じっさい、私にとって自分の子どもたちを愛することができない父親や母親、あるいは両親に愛されない子どもたちの気持ちがどういうものであるのか、ある程度想像することはできても、それで彼らのことが理解できたなどとはとても言えない。

 ひとりの人間としてはまだまだ弱く、誰かの庇護を必要とする子どもたちにとって、無条件に自身の存在を認め、愛してくれる両親の存在は、一人前の大人として社会で生きていくためになくてはならないものである。だが、不幸にもそうした愛に恵まれることのない幼少期を過ごさなければならなかった子どもたちが、それでもなお社会の中で適応して生きていかなければならないとき、目の前にある多大なコンプレックスと葛藤と精神的苦悩を乗り越えていくという過程――本来であれば幼児期に通り過ぎていくはずの過程をやり直す必要がある、という考えは、ある意味で納得できるものであると言える。もちろん、そこに到るまでの道のりが想像以上に困難なものであろうことは言うまでもないのだが。

 本書『新宿ミルク工場』は、そんな傷ついた過去を背負ったまま生きていかなければならなかった、身体的にはもう子どもとは言えない少年少女たちの出会いと、おそらく癒しを描いた作品である。おそらく、という言葉を使ったのは、本書に提示されたひとつの道が、著者にとってはあくまで無数にあるであろう解答のひとつでしかない、ということを踏まえたうえでのものである。物語は大きく「ミルク」「工場」「新宿」と名づけられた三部に分けられているが、最後の「新宿」は物語でいうならエピローグのようなものであり、そういう意味では本書の構成は大きくふたつの流れによって成り立っていると言っていいだろう。

 一方で、誰かを探している人間がいて、もう一方で、その誰かに探されている人間がいる。探されている人間は、絶望によって現実の世界そのものから逃亡しようとしている者であり、探している人間は、似たような絶望を抱えながらも――いや、それだからこそ絶望を共有する彼らの力になりたいと思っている者である。そして、探している人間と、探されている人間とが出会う。探している人間にとって、思いがけず出会った人物は、彼らが必死になって探している対象ではない。だが、初対面であるにもかかわらず、お互いがお互いを必要としていることを知る。彼らは似たような境遇を共有していており、自分と近しい存在であることを、本能的に見抜いたからだ。

 何の認識もない人間どおしが、親しみとか情愛とかいった能動的な気持ちからではなく、世の中への絶望や、自分自身への拒絶といった、いわばマイナスの気持ちによって強く結びついてしまう――いっけんすると、現実にはありえなさそうな人と人との出会いと、その後の関係の進展をあえて描いた背景には、児童虐待や過去のトラウマといったマイナスの感情が本書のテーマとなっているからである。じっさい、そうした背景については、物語が進んでいくにつれて徐々に明らかになっていくのであるが、そうした特殊な出会いを描くうえで、現実世界から打ち棄てられたかのような廃ビルや工場といった場所を選び、主要な登場人物以外の存在を可能な限り遮断し、さらに降りつづく雨によって、ますます登場人物だけの世界を強固にしていくという手段を用いている。私たち読者は、そうした背景装置によって、言ってみれば登場人物たちが共有する特殊な世界観のなかに入り込んでいくことになる。現実世界でありながら、現実ではない彼らの精神世界――絶望によって押しつぶされようとしている彼らの心理を現わすのに、こうした背景装置はじつにふさわしい。

 ビルの屋上から飛び降り自殺をしようとしている望月景を見つけ、どうしてもそのそばを離れようとしない中川清香、その清香のもとから失踪した椎名純紀を偶然見つけた久我誠司。探す者と探される者が、まるで現実世界の避難場所であるかのような、見捨てられた場所で一緒になることで、いったい何が起こり得るのか。その結末についてはここでは語らないが、一人称で進む物語のなかで、いかに非現実的な展開が起こっていったとしても、著者は現実世界とのつながりを完全に断ち切らないようにしているところは評価すべき部分だろう。そしてそれは、それぞれがあまりにも重い過去を背負う登場人物たちへの、わずかながらに残された希望であり、また著者のやさしさでもある。

 理不尽な大人たちによって、本来与えられるはずのものを得られないまま成長してしまった少年少女たち――彼らの痛々しいまでの現実肯定、自身の存在肯定への到る道を、文字通りの意味で生々しく描き出した本書は、それゆえにいろいろと問題が多いのもたしかではあるが、それは、本書のテーマ自体がそれだけ深刻な問題をはらんだものである、ということを指しているのだと言える。(2004.12.30)

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