【理論社】
『手と目と声と』

灰谷健次郎著 



 たとえば今、あなたの目の前に銃で武装した集団がいるとする。もちろん、その銃は本物で、相手はその気になればいつでもあなたの命を奪うことができる立場にある。そしてある日、彼らはあなたにこんなことを言う。

「我々もお前も同じ人間だ。そうである以上、お前の人間としての権利を尊重しなければならない。もし我々に何か言いたいことがあれば、なんでも言ってくれ。我々には、お前の意見を聴く準備がある」

 さて、あなたは彼らの言葉を、そのままうのみにできるだろうか。

 これはあまりに極端な例かもしれないが、ある集団において強い力、実質的な権力をもっている人間は、時が経てば経つほど自分たちが強者の立場にいることに無頓着になっていくものだ。ここでいう「強者」とは、別に重火器を所有しているとかいったことではなく、たとえば生徒に対する教師、子どもに対する両親、貧乏人に対する金持ちといった、私たちの日常にもごく普通に存在する人間関係のことを指している。そして、こうした強い立場にいる者たちが自分の持つ力に無頓着になったとき、しばしば上述のような、銃をちらつかせながら自由や平等といったことを平気で口にしたりする。銃をもっていない弱者にしてみれば、これほど空虚で無意味な言葉もないだろう。

 もし、強者が本当に弱者の言葉に耳を貸し、彼らの意見を尊重しようと考えているのであれば、自分たちから彼らのいる場所まで降りてきて、彼らと同じ視点に立って物事を考える必要があるだろう。たとえそれができなくとも、少なくとも自身が持っている銃を手放したうえで話し合いをすべきだろう。だが、世の中には銃をもっていながら「これは護身用だ」と言って手放そうとしない者たちが多い。さらに言えば、自分が持っているのが銃であると自覚すらしていない者もいる。そんな人たちが、どれだけ立派なお題目を唱えても、弱者にはしらじらしく聞こえるだけである。

 本書『手と目と声と』は、5つの短篇を収めた作品集であるが、いずれの作品も、社会的弱者が物語の中心にいる。著者にとっての「社会的弱者」とは、言ってみれば「子どもたち」のことなのだが、著者が描く子どもたちは、自分たちが弱い立場にいるからといって、けっしてそのことに打ちひしがれたり、くさったりはしない。むしろ、教師や両親といった社会的強者、自分たちを指導する立場にある人たちの言うことに逆らい、彼らを困らせるような言動をとることが多い。もっとも子どもであるからこそ、大人たちのように打算や欲得でものを考えず、またそれゆえに大人たちの持つ欺瞞や無責任な部分には敏感に反応するのだが、そういう意味で、本書に登場する子どもたちは、ともすると力で押さえつけようとする強者に抵抗をこころみるレジスタンスだと言ってもいい。

 じっさい、「水の話」ではことあるごとに問題を起こし、教師たちににらまれている水泳部が出てくるし、「声」では普通の生徒たちと同じ授業を受けられない――それはつまり、先生の言うことをきく能力がない、ということにされている――特殊学級の生徒たちに目を向けている。「友」においては、頭ごなしに生徒を叱りつけ、規則で縛りつけようとする教師たちに、鋭い反論の言葉を投げかけて困惑させる伊丹という男子生徒が登場し、そんな彼のささやかな反抗に、それまで「良い子」でとおしてきた前田美那子が少しずつ影響されていく、という話である。けっして行儀がいいとは言えないし、また教育者、保護者としては、ほとほと手を焼かされる彼らではあるが、そんな彼らの頑固な自己主張は、そこになんら含むものが存在しないがゆえにすがすがしく、また胸のすく思いがするのも事実だ。

「手」という短篇は、両親の強い反対を押し切って沖縄県八重山諸島へ子どもふたりだけで旅行をするという話だが、この作品で抵抗をつづけているのは、子どもたちというよりも、むしろ彼女たちの先生であり、また彼女たちがその旅先で出会ったおばあさんである。彼らが抵抗をつづけているのは「戦争」という、とてつもなく不条理な強者だ。爆弾によって吹き飛ばされた手を、ごく自然に生徒たちにさらけだす先生、息子たちを戦争で奪われ、ただひとり墓参りをつづける老婆――ここでの子どもたちの役割は、そんな無言の抵抗をつづける弱き大人たちに、少なからず影響を受けていくことである。

 また「目」という作品では、インドネシアの遺跡を訪れた語り手が、たとえばその旅の途中、列車の乗客に何かを売ろうと押しかけてきたり、遺跡で無邪気に遊んでいる、けっして裕福とは言えない子どもたちの姿に、逆に大きな衝撃を受ける。ここでも、弱き者たちである子どもたちは、とくに自分たちの置かれた境遇を声高に訴えたりはしない。だが、語り手はそんな弱き者たちが、その劣悪な環境に屈することなく、たくましく生きていく様子にこそ心打たれるのである。

 わたしの家では、家族会議というのがあって、わたしや弟が、あらかじめ決められている生活のルールを少しでも破ると、徹底的に話し合いをさせられる。話し合いというときこえはいいが、親の理屈で一方的に押しまくられるという感じ。

「友」より

 本書を読んでいると、子どもたちから見て嫌な大人ほど饒舌なのがわかる。ともすると、一方的に自分の都合や理屈を子どもたちに押しつけようとするかのように、表面上は正当な言葉を口にするのだが、子どもたちが本当に求めているのは、そんな正しい大人の論理などではなく、自分たちと同じ立場にいて、自分たちといっしょに笑ったり泣いたりしてくれる人たちである。そして、彼らはけっして多くを語らないし、てっとり早く問題を解決するようなやり方をとったりすることもない。それは、著者の本書に対する距離の置き方についても言えることだ。著者の視点は、読者に何かを教えようとする立場のものではなく、子どもたちと同じ位置にいて、ただ彼らの様子を描くことに徹底している。思えば、著者が表現しようとしているテーマほど、言葉で語るのが難しいものはないだろう。そう考えたとき、本書が真の意味での児童書なのだということを、あらためて認識させられることになる。

 きちんとした意味をもち、論理的に相手を屈服させる言葉ではなく、その手で、その目で、あるいはいっけんすると動物の鳴き声のように聞こえる声で、ささやかな自己主張をする弱きものたち――著者の視線は、そんな彼らの姿をまっすぐにとらえている。(2004.06.14)

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