【ランダムハウス講談社】
『メッセージ』
The First Card/The Last Card

マークース・ズーサック著/立石光子訳 



 以前、仕事で取引先に向かっていた私はある女性に助けを求められたことがある。助けといっても、別に暴漢に襲われていたとかいうのではなく、たんに手にした小型ペットボトルのふたを開けてほしい、というもので、それは私にとっては何の労力も必要のない、ごくささやかな手助けにすぎないものであったのだが、その女性にとっては、見知らぬ通行人にすぎない私に助けを求めなければならないほどの大きな問題だった、という見方もできる。

 このとき私が思ったのは、おもにふたつのことだ。ひとつは、助けてほしい人が自ら「助けて」と声をあげてくれなければ、助けを受けることはできないということ。人は基本的に自分勝手な生き物で、助けを求めたところでけっしてそれに応えてくれるわけではなく、むしろ邪険にされたり迷惑がられたりすることのほうが多かったりするのだが、少なくとも自分から助けが必要だと明確に主張しないかぎり、私のような鈍感な人間にはけっして伝わらないのである。そしてもうひとつは、人を助けるというのは、ときにほんのささやかな言動で事足りてしまうこともある、ということである。

 私たちが生きているこの世界には、じつにさまざまな問題が山積している。それは、私たちの身のまわりで起こっているような小さなものから、地球規模の大きなものまでさまざまであり、ニュースや新聞などでも毎日のように報道されているものでもある。だが、仮にその問題を認識したとして、じっさいにその問題を解決するために何らかの行動を起こす人が、はたしてどれくらいいるだろうか。たいていは、よほど自分の今の生活に大きな支障が出ないかぎりは、どれほど大きな問題であっても他人事として放っておくのが関の山である。もちろん、それが悪いというつもりはない。私だってそうであるし、何らかの行動を起こすかどうかは個人の自由である。そして、自分ひとりの力など、たかがしれているというは、なにより当人が一番よくわかっている。私たちはスーパーマンでもなければウルトラマンでもない。ただのありふれた人間なのだ。

 だが、それでもふと思うことがある。たしかに私たちひとりひとりは無力だが、もしかしたら私たちは、それを言い訳にしているだけではないのか、と。もしかしたら、ほんのちょっとの勇気をふりしぼることで、その人にとっては大きな助けとなるかもしれないのに、最初から何もしないでいて、本当にそれでいいのだろうか、と。

「そう、ボブ・ディランは十九歳のとき、スターの座にかけのぼろうとしていた。ダリは天才への道を歩んでいた。――(中略)――そして十九歳のとき、エド・ケネディは郵便受けのなかに最初のカードを見つけた」

 本書『メッセージ』に登場するエド・ケネディはしがないタクシー運転手――それも、年齢を詐称してはたらいている未成年である。オーストラリアの大都市の近郊にある下町の出身で、まともな職歴も大学の卒業証書もなく、母親からはろくでなし扱いされている、言ってみれば社会のおちこぼれであり、やっていることといえば、せいぜい同じタクシー会社の親友であるマーヴ、リッチー、オードリーとカード・ゲームに興じるくらいで、現状にも未来の展望にも何の希望ももてずにいた。そんなある日、エドのもとに一枚のカードが届く。それはトランプのダイヤのエースで、三つの住所が記されていた。そしてエドがその住所に向かうと、そこには誰かの助けを必要としている人が住んでいた……。

 いったい、誰がこのカードを送りつけてきたのか? そしてその人物の目的は何なのか? エドが思ったのは、おもにふたつのことだ。ひとつは、このカードの送り主はおそらく、エドが銀行強盗の犯人逮捕に大きな貢献をしたというニュースを知り、ほかならぬ自分に白羽の矢を立てたのだということ。だが、彼は最初から銀行強盗に立ち向かおうとしたわけではなく、たまたま現場にいて事件に巻き込まれ、偶然に偶然が重なった結果そうなったというだけのことだった。そしてもうひとつは、これは自分に与えられたチャンスかもしれない、ということである。何のとりえもなく、これまで何ひとつ大きなことを成し遂げたこともない自分が、今回のこの奇妙な出来事をきっかけに、これまでの自分を変えていく第一歩になるかもしれない、という期待――ともあれ、エドは逡巡しながらも、カードの送り主が望んでいる役割をはたすために行動をおこすことになる。

 たとえどのようなことであれ、自分が他の誰かの思惑どおりに動かされているというのは、けっして気分のいいものではない。だが、エドのところに次々と送られてくることになるエースのカードには、本書の言葉を借りるなら「独特の霊気のようなもの」があったという。その表現は、けっして大袈裟なものではない。なぜなら、そのカードには何らかの理由で何らかの助けを求めている人の情報が書かれているわけであるが、それはエドがこれまでどおりの生活をしていくぶんには気づくことのできない、言ってみれば彼にとっての異世界の扉を開くための鍵の役割をもっているからであり、そういう意味で、本書は現実世界から異世界へと旅をするファンタジーと似たような物語構造をもっている。

 ただし、エド自身には魔法の素質もなければ、選ばれた勇者であるわけでもない。本書において重要なのは、彼が私たち読者とそれほど変わらない、ごくありふれた人間だということである。臆病で、気が弱く、セックスだって苦手なエド――ゆえに、「助ける」といっても彼にできるのは、ただメッセージを届けることだけである。ただし、そのメッセージはけっしてただの言葉ではなく、ときには暴力的なものであったり、ときには本当になんということのない贈り物だったりとさまざまな形をとるのだが、ひとつだけ共通しているのは、それは「助けを求めている人」であることを前提に、外から眺めてみてはじめて気がつくメッセージだということである。そしてそのメッセージは、それを受け取った人のなかで、確実に何かを変えていく。まるで魔法か何かのように。

 送られてくるカードは、後になればなるほどひねった形をとるようになり、エドがその意味を苦労しながら推理していくことになるのも本書の特長のひとつであるが、そうして導いた「助けを求めている人」は、しだいに彼の身のまわりにいる人たちにおよび、それは否応なくエド自身のことにもつながっていくことになる。いつもエドにつらくあたる母親、いつまでも働こうとしないリッチー、金にうるさくケチなマーヴ、誰も愛そうとしないオードリー ――そして、本書を最後まで読んだとき、本書のタイトルでもある「メッセージ」という言葉の本当の意味を知ることになる。

 小説というのはまず書き手がいて、そこから物語の登場人物が生み出されることになる。それゆえに、ときに小説を読んでいると、登場人物たちの言動の裏に書き手の意図というものが見えてしまうことがある。それは登場人物が書き手によって動かされている、という感覚であるが、本書においてはカードの送り主という謎の人物を配置することによって、最初から主人公が「誰かに動かされている」という前提を読者にもたせ、しかもそれを物語の一部として組み込んでしまっている。こうした逆転の発想にもとづいて展開していく本書で、エドが最後にどんな結末を得ることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2006.03.23)

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