【講談社】
『円朝芝居噺 夫婦幽霊』

辻原登著 



 私たちが海外のすぐれた小説を日本語で読むことができるのは、ひとえにすぐれた翻訳家の技量のおかげに他ならないし、そうした翻訳ものを気軽に入手できる環境にあることは、一読書家としてこのうえない僥倖でさえあるのだが、それでも、もし自分に語学の才能があって、海外作家の小説を原文で読むことができたら、としばしば思うことがある。もちろん、翻訳家の仕事には最大限の敬意を払っているし、またそうされてしかるべきだとも思っているが、どれだけその翻訳がすぐれたものであったとしても、そこにはすでに「翻訳」という、第三者の手による介入が発生しているという事実は厳然として存在する。

 技術書や取扱説明書といった、事実だけが確実に伝わればいいものであれば、そこに必要なものは翻訳としての正確さということになる。だが、こと小説というジャンルの場合、行間のニュアンスやその国の文化といった背景も無視できない要素となる。海外の小説を原文で読めたら、という私の欲の裏側には、翻訳という技術が、そうした微妙なニュアンスをどれだけ伝えることができるのだろうか、という複雑な気持ちがある。

 ところで、同じ日本語であっても、話し言葉と書き言葉のあいだにはいくらかの隔たりがある。日々の生活のなかで、私たちは小説のなかの会話文のように要点をとらえ、理路整然と話しているわけではないし、インタビューや対談集とかいったものも、本当に話した言葉をそのまま書き起こしているわけではない。だが、少なくとも声に出して読んでみたときに、話し言葉として大きな違和感はない。それは今の日本語の書き言葉が、明治時代に起こった言文一致運動――それまで漢文調だった書き言葉を、話し言葉に近づけようとする運動によって確立されたものだからであるのだが、今回紹介する本書『円朝芝居噺 夫婦幽霊』のなかで、もっとも重要なポジションにある噺家の三遊亭円朝が、その言文一致運動に大きく貢献していたことをご存知だろうか。

 円朝の口演は速記符号化され、それから文字に翻訳され、出版された。話され、考えられたとおりに文章化する。円朝の作品群が言文一致運動の先駆的業績と評価されるゆえんだが、円朝の本は話されたとおりのものではない。

 言文一致の小説をはじめて書いたとされる二葉亭四迷が『浮雲』を執筆するさい、参考にしたと言われている三遊亭円朝の速記本――本書は作中に同名で登場する著者が、知り合いの古本屋の筋から数百枚におよぶ毛筆の速記符号の書かれた原稿を手に入れ、解読を試みたところ、それが三遊亭円朝の考案した講談、それも「夫婦幽霊」という題の、それまで知られていなかった幻の講談であることが判明、その内容を口述に近い形で掲載するという流れをとっている。じっさい、本書の大部分がその「夫婦幽霊」の口演で占められているわけだが、重要なのはその内容もさることながら、「夫婦幽霊」というひとつの虚構をかぎりなくリアルへと近づけるための構成の妙だ。

 じっさいには実在しないものを、さも存在しているかのように扱うという一種のファンタジーは、たとえば酒見賢一の『後宮小説』における、虚構の王国である素乾国の歴史書を引用するという形式や、あるいは古川日出男の『アラビアの夜の種族』における、虚構の書物である「災厄の書」につけられた訳注など、いくつかのパターンがあるが、本書における速記符号化された噺家の口演の翻訳という仕掛けは、現実の歴史において三遊亭円朝が自らの口演を速記者に写し取らせ、速記本として出版したという事実にもとづいているがゆえに、その信憑性については申し分のないものがある。そのうえ、著者自身の過去の作品を利用して、そこに登場する人物が、じつは同姓同名の実在の人物をもとにしたというエピソードといい、今はほぼ失われつつあるという田鎖式速記の知識といい、本書はひとつの大きな嘘を真実に見せかけるための、自分自身をふくめた数多くのリアル要素の使い方がじつに巧みであり、何気なく読んでいくと、本書が小説であることをつい忘れてしまい、まるでドキュメンタリーか何かを読んでいるかのように錯覚してしまう。

 本書の作中作という形で掲載される「夫婦幽霊」については、いかにも落語家が講談を語るかのようなですます調のもと、江戸の御金蔵から盗まれた四千両をめぐる大工や棟梁、その妻、浪人、吉原の新造、はてはその犯人を追う若き与力といった者たちのかかわりとその顛末を描いたものとなっており、ひとつの物語としては完成されたものでもあるのだが、重要なのはその内容よりも、むしろ三遊亭円朝の未発表作品――速記符号という形で発掘された原稿という位置づけのほうにこそある。あくまで速記符号からの翻訳という形で掲載されている「夫婦幽霊」であるが、そこに付随する訳者注のなかに、この「夫婦幽霊」の原稿が本当に三遊亭円朝の口演を写し取ったものなのかを疑問視させる要素が組み込まれているのだ。

 言うまでもなく、「夫婦幽霊」というのは本書のなかでのみ存在するもので、現実には実在しないものである。だが、本書のなかで発見された速記符号の原稿は間違いなく三遊亭円朝の語りを漂わせるものだと断言しておきながら、同時に別の切り口から見たときに、それが偽書の可能性をふくんでいるという矛盾が発生する。つまり、本書のなかの世界においても、「夫婦幽霊」という口演は実在するとも、実在しないとも判断のつかない、なんともあやふやな状態に置かれてしまうことになる。まるで、ある特定の人にしか見えない幽霊のように。

 その存在自体が大きな謎と化す「夫婦幽霊」――その真相がどのようなものなのか、というオチもふくめ、本書そのものが相当の知識と技量の結晶であることに疑いはなく、非常にハイセンスな作品だと言うことができる。それはまさに、無類の円朝マニアである著者が生み出した、円朝論ならぬ円朝ロマンスの傑作である。(2012.02.26)

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