【新潮社】
『眩暈を愛して夢を見よ』

小川勝巳著 



 ずっと以前に、とあるファンタジー系のライトノベルを読んでいたときに、「あとがき」の中に作品の書き手が、あたかも作中人物であるかのごとく登場し、自分が生み出したはずのキャラクターと会話をしていたりする場面と出くわして、ひどく驚かされた覚えがある。

 物語そのものは本編のなかで終了しており、「あとがき」は本来、書き手が自身の作品に関する個人的なエピソードや、作品化に関してお世話になった人たちへの謝辞といったものを書き連ねる場であり、いわば現実世界に属する部分であるはずだ。だが、その「あとがき」では、虚構世界の住人であるはずの作中人物が、現実世界に生きる作家と同一の土俵に立つという、現実と虚構の境目がかぎりなく曖昧になった、奇妙な世界が形成されていたのである。

 物語の書き手である作家と、その作家によって生み出された作品世界との関係が、少しずつ変化しつつある。それは、作家と作品とのあいだに厳然と存在していたはずの「造物主−創造物」という関係がゆるやかなものになっている、いやむしろ、主従関係が逆転してきているのではないか、ということでもある。じっさい、瀬名秀明の『八月の博物館』のように、とくに私小説でもない作品に、あきらかに作家自身と思われる人物を登場させる小説は多いし、「ダレン・シャン」シリーズにいたっては、著者名と作品の主人公が同じ名前を共有してしまっている。彼らにとって作品世界とは、たとえば私小説における現実の再構築というよりも、むしろ現実以上に居心地の良い世界、つまり、自分が中心となってすべてが動いていく世界であり、その虚構を通じてしか、自身の価値観を反映できなくなっているのではないか、と邪推したくもなってくる。

 今回紹介する本書『眩暈を愛して夢を見よ』を読み終えたときに感じたこの違和感を、どのように説明すればいいのか、今もって戸惑いを隠せない、というのが正直なところだ。内容を簡単に説明すると、高校のときにあこがれの眼差しを向けていた先輩であり、その後AV女優とスタッフという形で再会することになった柏木美南が失踪したことを知った須山隆治が、以前勤めていたアダルトビデオ製作会社で知り合った、同じくAV女優である里山リサや、美南の元婚約者である蓬田一郎とともに、彼女の行方を追う、というもので、本書の構成としては、須山を語り手として進行する物語を中心にして、美南と因縁浅からぬ関係をもつ「俺」なる人物が、彼女を殺すために同じくその行方を追うという流れと、おそらく美南本人だと思われる「わたし」なる人物が、次々と見立て殺人をくりかえすという流れが付随している形をとっている。
 話が進むにつれて、「わたし」の連続殺人の被害者が、かつて美南に卑劣な虐めを執拗におこなってきた関係者であること、そして美南の過去がけっして穏やかなものでなかったことを須山が知るにいたり、物語は暗い怨念に狂った美南の連続殺人をどうやって食い止めるか、という切迫した展開へと流れ込む――ここまでこの書評を読んだ方なら、誰もがそう予想はずである。

 だが、話が第二部に入ると、いきなり美南が過去にミステリ同人誌に載せていた短編小説が挿入されたり、第一部そのものが、まるで作中作であるかのようなほのめかしがあったりと、だんだん展開が奇妙な方向にねじれていく。全体の雰囲気も、それまでのサスペンス調のものから、時代がかった探偵小説みたいなものへと変貌し、そして唐突に謎解きがなされ、事件が解決してしまう。しかも、読者はそのなかば強引な解決編に面食らう暇はない。物語はまだ終わってはいない――そう、物語は、真の「解決編」ともいうべき第三部へとつづいていくのだ。そして、本書における物語のメインは、むしろここからはじまると言ってもいい。

 殺人事件が起こり、犯人が存在し、そして謎解きがある――そういう意味では、本書はたしかに典型的なミステリーだ。あるいは、犯行の動機に迫るサスペンス的ミステリーと、トリックとその解明に特化した本格ミステリーの要素をひとつの作品に脈絡もなくとりこんでいった感のある本書は、ミステリーのパロディ、あるいはメタ・ミステリーと位置づけられるかもしれない。そして著者は、こうした「ミステリーもどき」がもたらす違和感について、確信犯的なところがある。もちろん、ここではネタばらしはしないが、本書のようなオチのつけ方について、おそらく反則だとみなす読者も多数出てくるだろうことは容易に想像がつく。だがひとつだけたしかなのは、本書ほど本サイトの「八方美人宣言」の意味を考えさせられるものはない、ということだろう。つまり、本書はまさしく、最後まで読まなければ意味がない作品なのである。

「柏木美南の小説の趣向のひとつは、動機の捏造。もうひとつがね、振出に戻る」

 はたして、柏木美南とは何者なのだろうか。第一部の時点では、柏木美南とは間違いなく作中人物のひとりだったはずである。だが、第二部、第三部と進むにつれ、彼女の立場はたんなる「作中人物」という枠ではとらえきれないような領域へと置かれていく。そして、ここが重要なポイントであるが、第一部から第三部を通じて、柏木美南はけっして肉体を伴った人間として登場することがない。すべてが他人の思い出や、書き残した小説、ビデオに録画された番組といった形でのみ、かろうじてその姿をとどめている彼女の存在は、すべてを通してみてみると、まるで現実の人間となるために、作品のなかであがいているかのような印象さえある。そういう意味で、上述のセリフは非常に象徴的だ。私たちもまた、この世に生を受けてから、生きていく動機を探し求め、そして最終的には死という振出へと戻っていく、という意味で。

 本書を読んで感じる違和感を、駄作として突っぱねるのは簡単だ。だが、もしその違和感が、自身が信じて疑わなかったたしかなもの――この世界そのものや、自分自身の存在について、揺さぶりをかけられたことによって起こるものであるとするなら、本書はまれに見る奇作・怪作としてその名をとどろかせることになるだろう。(2003.03.22)

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