【小学館】
『記念試合』

室積光著 



 以前読んだ近藤文恵の『賢者はベンチで思索する』という作品は、安易な理詰めの思考がかえってその人を物事の真実から遠ざけてしまう、という意味で、私にとって非常に意義深い作品のひとつとなっているのだが、その背景には、とにかく明確な答えというものを求めずにはいられない自分、中途半端な状態、どっちつかずの状態に何らかのケリをつけておかなければ居心地が悪い、という私自身の心の弱さがある。

 もちろん、はっきりと正しい、間違っていると判断できるものもあるし、いわゆる勝ち負けがきちんとつけられたほうがより良いこともある。だが、私たちの普段の生活のなかで、何が真実で何が嘘なのか、何が正しくて何が間違っているのか、善悪の判断、ある人の行動が意味するもの、その心のなかにある思いなど、わかっているようでいてじつは何もわかっていないことのほうがはるかに多かったりする。人はしょせん、主観からは逃れられない。だがそれは、自分にとって都合のいいことだけを真実とするということではない。だからこそ何かをきちんと把握する、真実を見極めるというのは、私たちが思っている以上に困難で、かつそれだけの覚悟が必要だということになる。そしてその覚悟がないままに、論理的正しさだけを追求すれば、ともするとこざかしい屁理屈で自己満足してしまいかねない。それは、誰かを安易に悪者にし、自分が正義だと理屈づけて人を傷つけることを正当化するのと同じくらい危険なことでもある。

「天才的な馬鹿になれ。馬鹿の天才になれ」

 けっして理屈だけで片づけることのできないもの、相矛盾する事柄を、無理に区切りをつけたり、枠にはめて形を整えたりせず、ありのままに受け入れることの覚悟と強さ――本書『記念試合』のなかに書かれているのは、けっしてこざかしい論理に溺れたり、目先の利益にとらわれたりすることなく、矛盾を矛盾としてまるごと受け入れる懐の広さをもつ人材たることを目指した者たちの、じつに気持ちのいい物語である。

 かつて鹿児島にあった旧制第七高等学校最後の卒業生である本田一にとって、旧制高校の思い出、とくに、西南戦争の頃からの宿敵である熊本の第五高等学校野球部との対抗戦は、ひときわ大きなイベントのひとつとして彼の青春を彩るものとなっていたのだが、来年はその対抗戦が百年の節目を迎えるということで、特に張り切っていた。それぞれの選手に旧制時代のユニフォームを着せ、OBたちが応援するというアイディアは出たものの、開催地が人吉の記念球場ということもあって、そこの出身者であり、また対五高戦でおおいに活躍したかつての豪腕ピッチャー、上田勝弥にはなんとしても出席してもらう必要があった。だが、彼は現在東京に居をかまえており、なぜか故郷での旧制七高のイベントには参加しないという姿勢を貫いていた……。

 本書冒頭では、敗戦で復員したばかりの勝弥が故郷の人吉に戻ってくるというシーンがあり、太平洋戦争を題材とした物語を思わせるような出だしであるが、本書の中心をなしているのは、むしろ彼の青春時代を象徴する旧制第七高等学校の思い出である。旧制高校というと、戦前の古臭い教育、とくに日本を戦争へと導いたというマイナスのイメージをもちがちなところがあるが、著者がスポーツライターである菅沢を通じて、上田勝弥に語らせる旧制高校の生徒たちは、いずれも破天荒で、魅力溢れる者たちばかりである。

 100人に1人という超難関を突破して集ってきた生徒たちは、言ってみればエリートたちであり、いずれ日本の未来を担う人材としておおいに期待されていたのだが、ここでいう「エリート」という言葉のもつ意味は、私たちが今日イメージするようなものとは異なったものだ。全寮制が基本だった旧制高校において、ときに門限をやぶり、ときに酒を飲んで騒ぎ、またことあるごとに「ストーム」と呼ばれる独自の踊りと歌を披露して、市電を止めることさえもあったという。それは、はたから見れば迷惑な話であり、また学生の本分をまっとうしているとは到底思えない乱痴気ぶりなのだが、同時に彼らは、自分たちがこうして馬鹿ができるのが、けっして自分の能力のおかげだけでないことを何より自覚していたと本書は語る。破っていいルールとそうでないルールを理解し、真剣に馬鹿をやる彼らは、何より私利私欲や自己保身に走る小狡さを嫌悪するところがあった。つまり、自分たちの力を多くの人のために、国をより良くしていくために使うという意識をもっていた。

 それは、子どもたちの大半が高校、大学へと進学するのがあたり前となった私たちには信じがたい意識なのだが、逆に言えば、だからこそ彼らは真のエリート、かつての武士なのだと妙に納得させられるものがある。旧制高校OBとしては最年少である本田にしてからが、かつて歴訪した外国の地でふんどし一丁になってストームをやるという武勇伝をもっているが、そんな真剣な馬鹿さをどこでも発揮できるエネルギッシュな人材が集っていたという旧制高校の面々が、いかにとんでもない人たちであり彼らの青春がいかに密度の濃いものであったのかが想像できようものである。

 だが、同時に彼らの青春には、どうしても戦争の影が見え隠れしてしまうのも事実である。そして、この戦争という要素が本書のもうひとつのテーマであるのだが、勝弥が語る戦争体験は、ただたんに悲壮さや残酷さを物語るだけでなく、もうひとつ重要な要素をもっている。それは、天才的な馬鹿という大物を目指し、国の未来のために貢献しようという彼らが、戦争で敵国の兵士を殺すというだけでなく、補給もないまま無謀な作戦を遂行させられたり、負傷兵を置いて逃げなければならなかったりといった、およそ彼らの学んできた事柄と矛盾するような行為をしなければならなかったという点である。じつのところ、勝弥が長年帰郷しようとしなかった背景には、そのあたりの矛盾に対する苦悩があるのだが、そうした、けっして理屈でどうこうできるわけではない矛盾を、それでも矛盾としてかかえて生きていくというある種の覚悟が、彼のなかには息づいていることに読者は気づくことになる。

 物語のなかで、勝弥はかつての青春時代と、戦争体験を語り、自分のなかの矛盾にあらためて対峙する。旧制時代につちかった覚悟と強さが、戦争によって頑固さとなり、そのことで娘との関係がぎこちなくもなった。自身の過去を語ることにどれほどの意味があるのかはわからない。だが、孫の勝男は自分の話を聞き、そのことで自分の進路を決めるに到った。やがて勝弥も、今度の記念試合に出席する意思を固め、故郷を目指す。記念すべき百回目の対抗戦――その試合のなかで、はたして旧制高校OBたちが何を目撃することになるのか、ぜひともその感動を共有してもらいたい。(2008.04.20)

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