【角川春樹事務所】
『メディア9』

栗本薫著 



 変わらない日常、というものについて、ふと思いをめぐらせる。それは言ってみれば、今日と同じような一日――たとえば朝起きて、食事をして、会社に行って働くといった、とくに著しい変化の起こらない、決まりきった事柄をこなしていく生活が明日も、あさっても、その次の日も変わらずやってくるということを意味しているわけだが、そこには当然のことながら、私たちがその日一日を無事に過ごすことができるという前提が存在しているはずである。

 じじつ、私をふくめて今の日本を生きる人たちの大半は、多かれ少なかれ変わらない日常が無条件に毎日やってくることをあたり前のように考えて生きている。2011年3月に起きた東日本大震災はその前提を大きく揺るがすクライシスではあったが、ふと気がついてみれば、それでも似たような日常を繰り返して生きている自分がいたりする。少なくとも、自分の命が今日か明日にでも大きな危機に見舞われるかもしれない、という前提に立って物事を考えたりはしていない。もちろん、この平和な日本においても、交通事故に遭うかもしれないし、突然難病を患うことだってありうる。だが、それはあくまで他人のことであって、他ならぬ自分がそうなるかもしれない、と想像できる人はそう多くはない。

 逆に言えば、そんなふうに生きていけるほど今の世のなかが安全だということであり、それは素晴らしいことではあるのだ。少なくとも、紛争地域において、いつ爆撃で家が破壊されたり、路上を歩いていて銃で狙撃されるかもわからないような暮らしとは、雲泥の差である。だが同時に、今の日本における自殺が毎年三万人以上という、交通事故死をも上回る数値であることを考えたとき、あまりに安全になりすぎた社会というのは、かえって危険なのではないか、と思ってしまうのは、はたして私だけだろうか。

 つまるところぼくは適性検査前の子供だったのであり――そうしてまた、市の中くらい、男の子を、早く一人前の男にする、きびしい競争や冒険や責任やから、遠ざけておくことに気をつかってくれるところもないのである。

 何もかもが完全にコントロールされ、組織も思想も経済も安定の極みに達してしまった未来の地球を舞台とする本書『メディア9』の世界――ありとあらゆる性のモラルが解放され、タブーが消滅し、そしてそれゆえに人々の消費活動が静止してしまっている社会のなかで、快楽をすべての価値に優先させる人類が、もっとも熱狂的に待ち望んでいるもの、それは外宇宙を開拓する宇宙船がもちかえってくる珍奇な嗜好品や、未知の外宇宙文化の技術という名の刺激だった。

 宇宙開拓が現実のものとなっている本書の世界のなかで、一人称の語り手として登場するリン・ニールセンは、そんな宇宙船のパイロットを父親に持つ少年である。あと一年で適性検査を受け、父親と同じように宇宙に出ることを渇望している彼は、しかし今の地球の管理された体制にどうしてもなじめない思いをいだいていた。それは彼がスペースマン――外宇宙に向かう宇宙船の乗組員のファミリーであることに起因するものであった。他の一般市民と比べ、知的好奇心や探究心が強く、また感情を抑制する意思の強さで物事を冷静にとらえ、次に何をすべきかを判断する能力にすぐれている彼らは、一般市民のいう「模範的市民」の価値観からは大きく外れる存在と見なされていたのだ。

 そんなリンの父親の乗る宇宙船「メディア9」が、十年ぶりに戻ってくるという知らせは、リンやその母親であるシーラだけでなく、多くの市民を熱狂させる。街の機能のほとんどが停止し、宇宙船が戻ってきたことを熱烈に歓迎するロケット・ウィーク――しかし、太陽系を通ってようやく基地の上空に姿をあらわした「メディア9」は、なぜか地上との連絡のいっさいを絶ったまま、不気味な沈黙をつづけていた。

 はたして「メディア9」の乗組員の身の上に、どのような非常事態が起こっているのか、という大きな謎を物語の推進力として展開していく本書であり、じっさいにその真相が明かされることが、そのまま物語のクライマックスにつながっていくような構造にもなっているわけであるが、本書を読み進めていってまず気がつくのは、リンたちをはじめとするスペースマンの家族と、それ以外の一般市民とのあいだに横たわる大きな隔たりだ。たとえばリンには、ロイというスペースマンの父親と、シーラという母親がいて、リンもシーラも血のつながった家族としてロイのことを誇りに思っている。それは私たち読者にしてみればしごく当然のことであるのだが、本書の世界においては、それがごく例外的な家族の形態であることが見えてくる。そもそも市民の大多数が、母親はわかっても父親が誰なのかがわからない場合が多く、また子どもたちもふだんは児童区で育てられ、リンとシーラのようにいつも親とともに過ごすというわけではないのだ。

 まるでスペースマンとその家族が、自分たちと同じ人間でないかのような、ある種の差別意識――著者が描く未来社会は、そうした変容した人類の意識や社会規範とはどうしても相容れない、古風な愛を貫こうとする登場人物たちの悲哀や孤独を描くものが多いのだが、本書の場合、リンという語り手が私たち読者にも比較的理解しやすいキャラクター設定になっているぶん、まだ感情移入しやすい話として読むことができるようになっている。読者にしてみれば、リンやシーラ以外の市民たちこそが、異質な存在なのだ。そして「メディア9」の内部で起きていることの真相が見えないという状況が、そんな彼らの隔たりをさらに大きくし、やがては彼らを排除しようとする過激な動きへと発展していく。

 いっぽうで過酷な宇宙空間へとあえて乗り出して、未知なるフロンティアを開拓していこうとする人たちがいて、いっぽうでそうした危険とは無縁の世界で、安穏とした快楽を享受したいと願う人たちがいる――それは、今の私たちにもあてはまる人間としての性質ではあるのだが、その差がもはや別個の種と言っていいくらいの隔たりとなってしまった世界が、本書のなかでは展開している。語り手であるリンが過激なテロ組織の罠に落ち、当局から犯罪者として追われる身となりながらも、なお彼ならこの危機的状況をなんとか打開してくれるだろう、という期待と安心感を読者にいだかせるのは、他ならぬリン自身がスペースマン気質の持ち主であることを、ある程度私たちも見抜いているからだ。そしてそこには常に、母親のため、そして愛する恋人のため――けっして自らの快楽のためではない動機が絡んでくることになる。その深い人間賛歌は、私たち読者にどれだけの心地良さを感じさせるものだろう。

 人の心、それこそは、たとえこれから何千年、何万年たとうとも、ひとが人であるかぎり、決してわかりつくすということのない神秘なのだった。それは人の希望であると同時に絶望であり、戦慄であると同時に陶酔をもたらした。

 生き延びることがあたり前になってしまった社会では、人はそれ以上の付加価値を生に求めることになる。本書の世界では快楽というベクトルを示していたが、今の私たちの生きる世界においても、「どれだけ金を稼げるか」というベクトルで人間の価値を図ろうとするという点においては、同じようなものだと言える。争い、大きな犠牲を出し、そのことを心から後悔しながらも、それでも同じ過ちを何度もくりかえす愚かで未熟な人類が、それでもこの宇宙に存在していることの意味が、はたしてどこにあるのか――「メディア9」の乗組員に起こったことの真相のなかにある、壮大なテーマをぜひ感じとってほしい。(2012.10.04)

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