【新潮社】
『彼女はたぶん魔法を使う』

樋口有介著 



 以前、ある方から私の個人的ベストに入る小説の傾向として「けなげで一途な女性」という要素が物語上にあるかどうか、というポイントをご指摘いただいたことがある。私自身、それまで意識していなかったことなのだが、言われてみればたしかに的を射た指摘であって、セバスチアン・ジャプリゾの『長い日曜日』にせよ、福井晴敏の『終戦のローレライ』にせよ、あと、これは男性ではあるが辻邦生の『背教者ユリアヌス』にせよ、いずれも何かに対してひたむきな想いをいだきつづける人々が登場する作品ばかりであったりする。

 ひとりの人間の存在などほんのちっぽけなものにすぎず、個人的にできることなどごく限られている。むしろ、個人の力など到底およばないことのほうが、この世にははるかに多いというのがまぎれもない事実であるが、そうした絶対的な事実の重さの前に、それでもなお止めようのない想いの強さに突き動かされるように行動を起こしていく人々の姿は、ある意味愚かではあるかもしれないが、それを払拭してあまりある生の輝きに満ちている。できないかもしれない、不可能かもしれない――その実現性の低さを理由に物事をあきらめてしまうのは簡単だ。だが、そのような判断であれば、おそらくコンピュータにだって可能だろう。私が人間の内にあるけなげさ、ひたむきさ、一途さに惹かれるのは、けっして何かに割り切ることのできない、まぎれもない人間としての生き様を見るからである。

 さて、今回紹介する本書『彼女はたぶん魔法を使う』は、典型的なハードボイルド小説だと言える。本書に登場する柚木草平は、かつて警視庁の刑事だったという経歴をもつフリーライターであるが、それとは別に、元上司だった吉島冴子から未解決の事件を回してもらい、その調査をおこなうという探偵まがいの仕事をすることがあり、今回はこちらのほうがメインとなって物語は進んでいく。調査の対象となっているのは、一ヶ月ほど前に起きた交通事故。調査の依頼人である島村香絵は、この事故で亡くなった被害者、由実の姉であり、彼女はこの事故がたんなる事故ではなく、轢き逃げ事件ではないかという疑いを抱いている。いっけんすると単純な交通事故のように見えるにもかかわらず、事故発生以後一ヶ月以上も経つのに警察側がいまだにその加害者を特定できないでいるという点、そして何より、依頼者である島村香絵が話そうとしない部分に不審感をいだきつつも、柚木は調査を開始するが……。

「君が思っているほど俺はタフじゃないし、それに、ハンフリー・ボガードにだって似てないさ」

 柚木の一人称「俺」で語られていく本書が典型的なハードボイルドであると書いたが、彼はけっしてタフな外見をしているわけではない。ときにおどけたような口調で軽口をたたきはするものの、じっさいにはもうすぐ四十に手の届く中年男性だし、拳銃片手に派手な立ち回りをするわけでも、あくまでクールに仕事をこなしたり、また過激な暴力でその手を血に染めるわけでもない。むしろ、元妻のまっすぐな正論には常に頭があがらず、またひとり娘のもちこむ問題には振り回されてばかりというイメージが目立つ、うだつのあがらない男なのだ。また、本書では依頼人の島村香絵や吉島冴子、また物語中もっとも柚木と絡むことになる夏原祐子など、けっこうな美女が何人も登場するものの、柚木が彼女たちといい仲になるようなこともなく、せいぜい気の利いていると思い込んでいるセリフを放つか、心のなかで言い訳がましい独白をしてみせるのが関の山だったりする。

 何かに対して自分の立場をはっきりとさせ、しかるべき主張を行なったりなすべきことを実行したりすることを巧妙に避けつづけようとする節のある柚木――それは、現在社会評論家としてテレビでも活躍している彼の元妻とは対照的な立ち位置であるが、こうした柚木の、どこにも属さない男という要素の徹底が、この作品の大きな特長のひとつであることは間違いない。そもそも、彼には現在、はっきりとした肩書きが存在しない。かつては刑事であり、また普通の家庭をもつ父親でもあったが、そのいずれの立場も放棄してしまったという過去をもつのが柚木というキャラクターであり、また今回の依頼の件にしても、彼はたとえば自分が私立探偵だと名乗るようなことさえしないし、そもそも自分をそんなふうに売り出しているわけでもない。フリーライターという肩書きも、本業というにはあまりにお粗末なものであり、そういう意味で、彼はたしかにほとんど後ろ盾のない立場にいると言うことができる。

 むろん、今回の調査にかんして、彼は元刑事であるというつながりを最大限利用してはいるが、そもそも今回の依頼にしたところで、警察の仕事のおこぼれをもらっているにすぎない。ほんの少しでも状況が変わってしまえば、たちまち危うくなってしまうような柚木の、そのはっきりとしない立場について、お世辞にもあまり格好がいいとは言えないものがあるのだが、重要なのは、彼がそうした自分の立場――ひとりの人間にできることなどたかが知れている、という事実の重さを誰よりもよく知っていることである。そして同じように、ひとりの人間に背負える責任についても、限度というものがあることも。

「同じ仕事をするのなら、警察をやめる必要はなかったのにね」
「同じ仕事では、ないさ。今はいやなら、いつでも逃げ出せる」

 柚木はけっして誰かに対して過剰な期待をもたせないように気を配っているし、自分のおこなっていることが、何か物事を劇的に進展させたり、その人のかかえている問題を根本的に解決するわけでもないことを充分自覚している。ミステリーにおいて、探偵は提示された謎を解き、真実を追い求める役割を負うキャラクターであるが、仮に事件がすべて片付いたとしても、最初に殺された被害者が甦るわけではない。ひとりの人間としての限界も、真実を求めることの虚しさも知りながら、それでも自分が自分であるための、吹けば飛ぶような矜持のためにひたすらやせ我慢をしつづける柚木の姿は、たしかにハードボイルド小説の主人公としての資格を有しているし、またこのうえなく健気でひたむきでもあるのだ。

 本書のタイトルである『彼女はたぶん魔法を使う』――現実に即して考えてみれば、たとえ誰であっても魔法など使えるはずがないのだが、たとえそれがただの偶然であったとしても、何か特別な力が働いたのではないか、という憶測を信じたいという想いは、誰もが多かれ少なかれ持っているものでもある。そして本書を読み終えたとき、読者はきっと、現実にはありえないことをいい年になっても思わずにはいられない柚木の、このうえないロマンチストとしての一面を好きになっているに違いない。(2007.06.17)

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