【朝日新聞社】
『魂込め(まぶいぐみ)』

目取真俊著 



 学生だった頃、一度だけ沖縄本島を旅行したことがある。スカイブルーの澄みわたった空、打ちあげられたサンゴの死骸でできた白い砂浜の向こうに広がる、ライトグリーンの海、シュノーケルで海に潜れば、色とりどりの魚たちが人間に怖れることになく近寄ってくるし、海からあがって周囲に目をやれば、原色の花々や濃い緑のシダ植物が繁茂している。南国の楽園――そんな言葉が臆面もなく脳裏に浮かんでしまうほど、沖縄という国は美しい、光と極彩色に満ちた世界である。
 だが、その一方で、沖縄を旅して思ったのは、道路を軍用ジープが走り、港に巨大な軍艦が停泊しているという、アメリカの軍事拠点としての沖縄――亜熱帯気候の自然の美しさとはまったく相容れない、生々しいまでの鉄の現実でもあった。そして、そのとき私は、沖縄がこれまでに歩んできた、けっして穏やかではありえなかった歴史、かつて第二次世界大戦の戦場と化した地であり、日本とアメリカ、その両方の暴力の犠牲者であり、戦後五十年を経てもなお、その構造に何ら変化のないまま、沖縄の住民にその犠牲をしいているという現実を、ほんの少しではあるが実感することができたと思っている。

 沖縄は、けっしてただ美しいだけの島ではない――そういった現実を覆い隠すことなく、しかし押しつけがましく演出することもなく、読者の前に示してみせることに成功した著者が、『水滴』で芥川賞を受賞した目取真俊であり、本書『魂込め(まぶいぐみ)』であると言うことができる。

 本書は、その表題作「魂込め(まぶいぐみ)」を含む六つの短編で構成されている。舞台はいずれも沖縄であるが、そこに描かれている物語は、たとえば同じく沖縄を舞台とした小説を書く池上永一の物語のように、けっして陽気で健康的な雰囲気に包まれているわけではない。たとえば「赤い椰子の葉」は、ボクシングを通じて主人公の少年と色白の転校生が親しくなる、という物語であるが、その転校生の思いがけない行動によって、自分の性――第二次成長のきざしを自覚させられた少年は、自分でもわけのわからない思いにとらわれたまま転校生と距離を置いてしまい、けっきょく仲なおりできないまま転校生がふたたび転校してしまう、という結末を迎えることになる。また「軍鶏」では、タカシがはじめて育てたアカという名の軍鶏が、本人の意志とは無関係に売られてしまうし、「面影と連れて」にいたっては、理不尽な生と死をその身に受けなければならなかった女性の魂が物語を語る、という構成をとっている。本書に収められた短編に共通するのは、当人たちにはどうすることもできない理不尽な出来事に対する少年少女の、あるいは老人たちの思いである。そして、その理不尽さはそのまま、過去の戦争において島人が受けなければならなかった悲痛な出来事に対する理不尽さにも直結しているのである。

 著者が描く沖縄は、けっして明るく楽しいものではない、と先に書いた。だが、それとはまったく無関係に、著者が描く沖縄世界は非常に色彩豊かで美しい。風に揺れる水麻黄の林、石灰岩の崖下から涌き出る澄んだ泉、夜の海をただよう海蛍の光、トンネルのように覆い茂ったマングローブの枝、そしてそこからこぼれおちる黄金の陽光――著者独特のきめこまかな色彩感覚で描写される沖縄の自然は、まるで現実に息づいているかのように、読者の想像をかきたてる力に満ちている。だが、同時に著者は、製糖工場の廃液や養豚場から垂れ流される屎尿によって、急速に汚染されていく川や、背骨がSの字に曲がったり、体の一部が膨れたりする魚を描き、若者の流出によって確実に衰えていく部落を描き、けっして陽気なだけではない、かつての戦争によって傷つけられた人々の複雑な心を容赦なく描いていく。自然の美しさと人工物の醜さ、古き伝統と新しい習慣、平和と戦争――それはそのまま沖縄と日本という関係に置きかえることができるように思えてならない。著者にとっての沖縄は、けっして沖縄だけでは成立しない。古き沖縄の伝統とは対極を成すものを同時に描写することで、そのコントラストはよりいっそう際立ち、物語は理不尽でありながら、まさにそれゆえにどことない儚さをたたえた美しさを現出させることになる。

 「魂込め(まぶいぐみ)」では、ウタは我が子のように育ててきた幸太郎の体から抜けた魂を、けっきょく元に戻すことができなかった。また「ブラジルおじいの酒」に出てくるおじいは、かつて父と泡盛を前にしてかわした約束を果たすことができなかった。戦争という、私を含めた若者たちにはもはや想像することすらかなわない遠い過去の出来事――だが、本書のなかではけっして過去へと流されることなく、現世に未練を残して漂う魂のように、現実に大きな影響を与えつづけている。
 島人はいつか、その悲しみを乗り越えることができるのだろうか――人々の心から徐々に戦争のことが忘れられていくのと同じように、あるいはいつか、そんな日を迎えることもあるのかもしれない。だが、どれだけ人の世が変わり、人々の心が変わっていったとしても、沖縄の自然の美しさは昔も今も変わらず存在しつづけることだろう。過去と同じように未来においても、植物は花を咲かせ、色とりどりの蝶たちが花の蜜にむらがり、海亀は浜辺に卵を産み落とし、そこから産まれた小さな亀は、再び海へと還っていく。その壮大な自然の生成流転のなかに、先祖を尊び子孫を残していく人間の営みをあてはめたとき、人間もまた自然の一部であり、他のあらゆる生命と等価であることを悟ることになる。

 海のそばの集落に生まれ、海に湧く生き物を食べて育ち、人間は海によって生かされ、死ねば海のかなたの世界へ行くのだと教えられてきた。――(中略)――そうやってみな海のかなたの世界へ帰っていくのだと思った。(「魂込め(まぶいぐみ)」)より

 沖縄を旅行したときに何度かお世話になったバスの中で、私は沖縄出身のお年寄りが沖縄の方言で喋るのを、たった一度だけ聞いた。それはまるで、どこか別の国の言葉であるかのような、独特のイントネーションをもち、私にはその意味をとらえることがほとんどできなかった。その不思議な響きをもつ沖縄の言葉の裏に、どれだけのものがあったのだろうか、と今になってふと思う。願わくば、著者の描く沖縄が、遠い過去の出来事として片づけられるようなことにならないことを祈りたい。(2000.06.12)

ホームへ