【ファラオ企画】
『街の博物誌』

河野典生著 

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 もし、私たちが普段から見慣れた日常風景のなかに、常識で考えても絶対にありえないような非日常的要素が、まるでそこにあるのがあたり前であるかのように存在していたとしたら、私たちはいったい、どういう反応を示すだろうか。

 たとえば、松浦理英子の『親指Pの修行時代』という作品は、ある日突然、足の親指がペニスに変わってしまった女性の遍歴を描いたものであるが、「足の親指がペニスになる」という現象以外はまぎれもない現実にいる彼女は、当然のことながらその「絶対にありえないはずの出来事」に当惑し、その意味を求めて長く思い悩むことになる。そしてそれが、ごく普通の感覚をもった人間の考えであり、行動でもあろう。

 それまでの常識をあざ笑うかのような、不可思議な現象を前にしたときに人間が必ず抱く「なぜ」という疑問――人類の歴史は常にその「なぜ」という好奇心を科学の力と不屈の精神で解明し、世の中の暗黒を次々と吹き払うことによって繁栄してきたわけであるが、逆に言えば、世の中のありとあらゆる物事を論理的に定義づけしていった結果、私たちは自らを「常識」という名の檻の中に閉じ込めてしまったのではないか、と思わずにはいられなくなることもある。

 常識ではありえない不思議な現象に対して、なぜ人は「なぜ」と問わずにはいられないのか、なぜ、目の前にある不思議を、不思議なものとして受け入れ、そのことを楽しむことができないのか――『街の博物誌』と名づけられた短篇集を読み終えたとき、私の胸に去来してきたのは、そんなひとつの疑問だった。

 たとえば、街の中、立ち並ぶビルディングに混じって、メタセコイヤの樹が育っている。住宅地に混じってトリケラトプスの群れが休んでいる。何の前触れもなく尻尾が生えてくる――本書の中で展開されるのは、ごく何気ない日常の中に不意にまぎれこんできた、たったひとつの「非日常」である。それはときに、ある特定の人間にしか見えないこともあるし、ときに町の住人すべてを巻き込んでしまうこともあるのだが、ひとつだけ共通することがあるとすれば、それは、どんな不可思議な現象が起ころうと、最終的にはその現象さえ「日常」の一部として回帰してしまうかのような、物語世界の雰囲気だと言うことができるだろう。

 ところで、私たちにとっての「日常」と「非日常」の境目、「常識」と「非常識」の境目は、いったいどのあたりにあるのだろうか。

「太陽柱」という言葉がある。ある特定の条件下において、まるいはずの太陽が、あたかも光の柱のように見えてしまうという珍しい現象のことであるが、いくら科学的に説明のつけられる事柄であるとしても、太陽が柱状になってしまう、などということが私たちにとっての日常とはとても言い難い。そういう意味では、日食や月食、流星群といった現象もまた、私たちの生活における「非日常」として位置づけることができるものだろう。

 とても珍しいことではあるが、けっしてありえないことではない現象――私たちはときに、変わり映えしない日常生活の繰り返しに倦み、何か「非日常」的な事件を待ち望んだりするものであるが、少し視野を広げてみれば、この世がいかに数多くの神秘に満ちているか、ということに気づくはずである。むしろ、私たちが接する世界など、全体のごくごく一部でしかなく、むしろ私たちが見たこともないような不思議のほうが、圧倒的に多いのではないか、と思えるくらいである。太陽が柱のようになったり、闇に食われたり、あるいは光の屈折で三つに見えたりする、それはたしかに「非日常」ではあるが、そのことによって私たちはけっして恐慌をきたしたりはしない。なぜなら私たちは、すでにそれらの現象が起こるメカニズムを、知識として持っているからだ。

 こうした世の中のさまざまなものを展示し、一般市民にも広くその知識を伝えるための場が博物館であるのだが、本書全体の雰囲気が、博物館を訪れたときに感じるそれとよく似ているように思えるのは、きっとそのタイトルのせいだけではあるまい。本書の中で起こる「非日常」の位置づけが、博物館で知ることのできる現象――太陽柱や日食と同レベルのものだからこそのものなのだ。

 そういう意味で本書は、いまだ解明されていない不思議な事柄だけを集めてつくられた「博物館」のようなものだと言うことができる。それゆえに、展示品そのものに説明文はついていない。そして私たちが『街の博物誌』から得られるのは知識ではなく、不思議を不思議として受け入れる心、「なぜ」ではなく「どのように」と問う心なのだ。

 ひとつだけ、その展示品を紹介しておこう。「ザルツブルクの小枝」という短篇のなかで、洋式便器の中が広大な大海原へとつながってしまうという奇妙な現象が起こってしまったとき、その便器で勇敢にも用を足した男のセリフである。

「便器というものが、あれほど神聖で哲学的な存在であるなんて、考えてみたこともなかった。だが、さっき、ぼくはあれに腰を下ろして、まさに真理に到達した感じがしたんだ。――(中略)――おれは、いま、天と海の間にある一本の筒だ。人間は所詮、一本の筒にすぎない。老いも若きも、男も女も、金持も乞食も、生きとし生けるもの、口から摂取する物質を、かたちを変えて排出するパイプにすぎないものである。うーむ。これは恐るべき体験だぜ。どうだい。諸君もぜひ、試してみないか!」

 雨上がりの空にかかる七色の虹は、たしかに大気中に浮遊する水滴が太陽の光を屈折、分散させることによって起こる自然現象のひとつでしかないが、それ以前に私たちはその虹を見て、きっと何かを心に感じているはずである。もし、あなたが日常の繰り返しに倦み疲れてしまったと感じているのであれば、『街の博物誌』のなかに展示されている不思議と接してみるのもいいかもしれない。(2002.06.14)

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