【河出書房新社】
『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』

中原昌也著 



 たとえば、「あなたを変えた一冊」なんていうテーマで、とある出版社がショートエッセイを公募していたとする。これに応募しようと考える人は、当然のことながらそのテーマに合ったエッセイを書かなければならないのだが、それ以上に、この公募はどのようなたぐいのエッセイを期待しているのだろうか、という主催者側の意図を勘ぐらずにはいられないものだったりする。

 もちろん、素直に自分が大きく変化するきっかけとなった本をエッセイ風に書けばいいわけだが、だからといって『バトル・ロワイアル』『リアル鬼ごっこ』、あるいは『完全自殺マニュアル』のような本をわざわざ選ぼうという人はいない。暴力シーンのあるゲームが世間で槍玉に挙げられるような昨今において、そうした反社会的要素の強い本が出てくることを、主催者側は望んでいないだろうという計算がはたらくからだ。それは同時に、ではどのような種類の本であれば採用されやすいだろうか、という予想にもつながっていく。ある本を読んで元気になった、生きる力を与えられたといった、いかにもハートウォーミング的なドラマを演出しやすいものがいいだろう、できれば主催者である出版社が出している本が望ましい――意識するかどうかはともかくとして、文章を書くさいに、そうした打算や取捨選択が、書き手のどこかではたらいてしまうのである。

 およそ私たちが用いる言葉には、言葉を用いた人間の意思や思惑がかならず付加されている。それは新聞記事やニュースの原稿、あるいは裁判の判決文といった、公正であることが前提とされている文章であっても例外ではない。そして、そうした言葉の裏にくっついてくるさまざまな雑音は、ときに予想以上の騒音となって言葉の受け手を悩ませてしまうこともある。言葉は、本来ただの言葉であるはずなのに、その言葉に付加されたある種のノイズにいちいち振り回されなければならないという状況は、よくよく考えればおかしなことであるし、それ以上にいらだたしいことでもある。

 今回紹介する本書『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』は12の短編を収めた作品集であるが、これほどまでに「意味」を求めることを拒絶している作品は珍しい。どの短編を取り上げても、そこに特定のストーリー性もなければ、そのストーリーにおける整合性もなく、登場するキャラクターへの思い入れもなければ、そもそも登場人物を登場人物として特定させようという意図もない。それゆえに、その作品の「意味」に重点を置いて本書を読んでいくと、恐ろしいほどに何も引っかかってこないという事態に直面せざるを得なくなる。読後感も何もあったものではなく、読んだ先から何もかも忘れてしまうのだ。だが、それをもって本書が内容的にスカスカな作品であるかといえばそんなことはない。ストーリーとかテーマとか、そういった既存の小説が評価の対象として重きを置かれる部分とはまったく異なるところで、本書は読者の何かにひっかかってくるものがある。その「何か」とはどういうものなのかを突き詰めていくと、けっきょくは作品のあまりののっぺりした印象、何も引っかかってこないという、まさにその点がひっかかるということになる。

 そのタイトルに「虐殺」といった過激な単語が使われているように、本書の登場人物、とくに「若者」としてくくられる登場人物たちは、作品のなかでけっこう過激な言動をとる。それも、何らかの理由があるように見えて、じつはまったく脈絡のない衝動に基づく行動だったりする。たとえば、駅前通りを歩く親子連れをバットでメッタ打ちにする。たとえば、Jリーグを見に来た観客を爆弾で皆殺しにする。ときには公園に充満したルンペンの臭いがなぜか子どもたちを死にいたらしめ、ときには何の予告もなく通行人に襲いかかり、ときには教師が生徒に死刑宣言をし、ときには急ブレーキをかけた車から放り出される。だが、読者にはそれが本当に実行されたことなのか、あるいはただの妄想のたぐいなのか、判断するだけの材料が何もなく、そうである以上、その異常事態を受け流していくほかにない。

 冗談なのか真剣なのか、その区切りが存在しない短編内の世界のなかで、登場人物がどれだけ過激で下品な言動を繰り返したとしても、世のなかはまるで無反応というか、そうした事態に関係なく機能しているという印象が、作品全体のなかにはある。それは間違いなく異常なことであるはずなのだが、自身の生活を顧みたときに、まさに私たちがそうした反応を示していることに気づくことになる。

 どこか遠い国で、余りにも非道な政治的虐殺があったとしても、テレビや新聞を見た我々は「なるほど」とうなずいて大概はそこで終わってしまう――(中略)――社会的弱者に対しても同じだ。社会の様々な局面で、我々は彼らに対して見て見ぬふりをするのだ。

(『ソーシャルワーカーの誕生』より)

 本書に書かれた言葉は、私たちが無自覚にいだいてしまう言葉のイメージからはずれたところで成り立っている。だからこそ物語の筋としては脈絡のないもののように見えてしまうのだが、逆に私たちは言葉に付随するさまざまなノイズをいったんキャンセルしたうえで、あらためて書かれた言葉そのものと向き合う必要に迫られる。そこで読者が感じとるのは、既存の書き言葉――明治からつづいてきた言文一致の言語体系ではとらえきれないものを、しかしその体系しかないがうえに用いざるを得ないという苛立ちだ。自分の思うことや感じることが、しっくりくる形で表現できないという苛立ちは、たとえば愛する人に出すラヴレターの文句が、いったん書き言葉として完成してしまうと、とたんに陳腐なものとして見えてくることへの焦燥感とよく似ている。

 それぞれの短編の登場人物がとる過激な言動は、「俺の言いたいことはもっともっとスゲーんだ」とうそぶく若者たちの叫びでもある。そしてその叫びが、じっさいに世界に影響をおよぼすことは無きに等しい。あるいは人間というのは、そうやって世のなかに妥協することで大人になっていくものなのかもしれないが、少なくとも本書のなかでは、そうした妥協を良しとしないというひとつのスタンスが感じられる。本書を読んだ読者が本書を評価するかどうかは、そのいらだちをどこまで共有することができるかにかかっている。そういう意味で、本書はものすごく読み手を選んでしまう作品だと言うことができる。(2010.01.23)

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