【早川書房】
『マルドゥック・スクランブル』

冲方丁著 



 本を読むことの効用のひとつとして、自己同一化というものがある。これは、本に書かれた他人の言葉に対して、まるで自分のことのように感じるという過程のことを指すのだが、これは逆に言えば、本を読むことによって自分がどの部分に感銘し、あるいはどの部分に違和感を覚えるかということを意識することであり、そのことによって人ははじめて自分と他人という関係を認識するにいたる。人は主観の生き物だ。自分という個がユニークであるという認識は、けっきょくのところ数多くの他者との比較によってしか測ることのできないものである。そうした他者との比較のないままに、自分がユニークだという確信だけが先走れば、その人はときに傍若無人なまでに自分の考えを相手に押しつけようとしてしまうことになる。

 自分という存在が他の誰でもない、まぎれもない自分自身であるという認識は、けっして生まれた瞬間から与えられているわけではない。だからこそ人は、多くの人との出会いによって自分と他人との類似と差異を意識し、比較する。それは自分という存在、自分の生に価値を見出す行為でもある。その過程は、けっして楽なものではない。だが、そうした紆余曲折、試行錯誤がないままに主張される自我が、どれだけ説得力のない、軽いものであるかを、私たちは自覚する必要がある。それはそのまま、その人の人間性の軽さ、生そのものを貶めることへとつながるものであるからだ。

 人間の定義とは何か? 価値という観念を理解するかしないかだ。――(中略)――価値を学び、自己の価値を創り上げる方法や、物事の価値、他者の価値をみとめ、高める方法を覚えることによって、初めて人間として社会へと参加するようになる。

 本書『マルドゥック・スクランブル』のテーマについて、端的に答えるならば、それは自分の生に価値を見出していく物語、ということになる。そしてそのテーマを物語として成立させるために、本書はふたりの登場人物を用意した。ひとりはルーン=バロット。彼女は15歳の未成年でありながら、娼婦として男に買われていた。賭博師であり、また合法カジノをいくつも抱える経営者でもあるシェル=セプティノスは、居場所も身よりもないバロットのために市民登録証を偽造することさえしてくれたが、それは彼自身の金儲けと出世のための巧妙な隠れ蓑にすぎなかった。策略によって燃えさかる車に閉じこめられ、爆殺されるところだったバロットを間一髪で救ったのは、委任事件担当官のふたり――万能道具存在である金色のネズミ、ウフコック=ペンティーノの能力と、ドクター・イースターの技術力だった。そして本書のテーマに深く関係するもうひとりの登場人物こそ、人間並みの自我と知能をもつウフコックに他ならない。

 港湾型重工業都市マルドゥック市を舞台として繰り広げられる本書は、科学技術が高度に発達したSFとしての要素が強く、その点も本書の物語を彩る重要な要素のひとつとなっているが、さほど昔ではないある時期に大きな戦争があったという設定のもと、あまりに高度すぎる技術の使用に関しては厳重な法の規制を受けるようになったという背景をもっている。本書のタイトルとなっている「マルドゥック・スクランブル」とは、マルドゥック市における緊急法令のことで、そのなかでも、人命保護のために法的には禁じられている科学技術の使用が認められる緊急法令を、とくに「マルドゥック・スクランブル-09」と呼ぶのだが、バロットの生命を救うために発令されたこの「マルドゥック・スクランブル-09」の適用条件が、じつは本書のテーマの大きな鍵となっている。

 重度の火傷で従来の皮膚組織のほとんどを失ったバロットに施された科学技術――それは、“電子攪拌(スナーク)”と呼ばれる電子干渉能力をもつ人工皮膚の移植だった。体感覚を常人の何倍も鋭くしたり、あらゆる電子機器に干渉し自由に操作したりという異能な力を得ることになったバロットだが、その適用において、彼女の潜在意識に干渉し「スクランブル-09」の適用を受け入れるかどうかを議論させたという前提がある。つまり、無意識においてバロットは、それまでの自分の体を失うことになっても、なお生きることを選択したということになるのだが、意識上にあるバロットは、その自意識を硬い殻のなかに閉じ込め、まるで人形のように相手にされるがままでいることを強いられる、ある意味で過酷な環境を生きてきた娼婦だったのだ。

 特殊な能力を得た少女と、亜空間から物質を引き出し、あらゆる物体、機械、兵器に自由にその身を変化させることのできるネズミのペアが、その能力をフルに発揮して敵たちと繰り広げる派手なアクションとしての面白さや興奮もさることながら、何より本書が感動的なのは、このふたりのコンビが、それぞれを対等な他者として認識しあうことで、はじめて自分自身の命に価値を見出していくという過程が、そのままふたりのバトルとつながっているという点に尽きる。人間でありながら、物言わぬ人形であることを強いられたバロットが異能の力を得て死から生還したとき、彼女の意識にあったのは、自分が生きていていいのかどうかという迷いだった。無意識において生を渇望しているにもかかわらず、意識下においてそのことに疑問を呈するという矛盾――それを考えたとき、戦争の兵器として生み出され、その能力が社会にとって有用であると証明しつづけることを宿命づけられたウフコックの存在は、バロットにとっては彼女のあるべき理想形として機能していることに気づく。生きたいという願い、また生きていていいという価値の創出は、ウフコックのように、与えられた力をいかに有効に活用し、役立てていくかという行動に直接つながるものであるからだ。

「彼女は全てを失った。彼女を助けたのは我々だ。彼女が今生きている意味を、一緒に探す責任がある。彼女に、生存放棄を選択させないことが、今の俺の有用性だ」

 バロットたちの敵は、ある意味でわかりやすい象徴をもっている。自分の殺人の記憶を脳内から消去してしまうシェルにしろ、同じく「スクランブル-09」の技術によって異能の力をもつボイルドにしろ、それは自分の生に価値を見出せなくなった者の姿であり、ともすればバロットやウフコックが陥ってしまう暗黒面でもある。だからこそ、彼らは否定されるべき敵として認識されるのだが、そんな彼らとの戦いが消極的な戦い、殺されないための戦いであるのに対して、物語の過程でバロットたちが仕掛けることになるカジノでの勝負は、いわば自身の能力を生かし、自分という存在に価値を見出す積極的な戦いである。本書において、ことカジノでの勝負の場面が、ウフコックの宿敵ともいうべきボイルドとの勝負以上の緊迫感をともなっている、というのは、それが殺されないための戦いではなく、生きるための戦いだからに他ならない。そしてそのとき、バロットが語る「なくしたもの」と「手に入れたもの」という言葉の意味が深く読者の心に突き刺さることになる。

 少し前に話題となった「ユビキタス」という用語の本質は、周囲のいたるところにコンピュータが配置され、人々がそこにコンピュータがあること自体を意識しない、というところにこそある。それは、コンピュータの操作が限りなく簡素化された、人に優しい技術ということだ。与えられた異能の力を、社会における自身の生の価値へと転換するための戦いに踏み出したバロットとウフコックは、そんなユビキタスの本来あるべき優しさを象徴する、という意味で、これまでにない深さと厚みをもつキャラクターとなった。そんな彼らの戦いを、ぜひとも見届けてもらいたい。(2007.12.09)

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