【東京創元社】
『人魚とビスケット』

J・M・スコット著/清水ふみ訳 

背景色設定:

 たとえば、殺人事件を解決するミステリーにおいて、その真犯人が誰なのかを追及していくのは必要不可欠な要素であるとして、そこに「どのようにして」という点が強調されていれば、その作品は新本格ということになるし、「なぜ」という点が強調されていれば社会派小説という位置づけがおおむね成り立つ。もっとも近年、ミステリーというジャンルのくくりが限りなく拡大解釈されつつあるなかで、そうした位置づけがどれほど有効なのかという疑問はあるものの、ミステリーにおける謎解きのポイントとして、基本となるのが「どのように」と「なぜ」の二つであることに間違いはない。

 このどちらの要素も、読者の興味を物語世界のなかにつなぎとめておくという意味では、ミステリーとしての成功の鍵を握る重要な要素であるのはたしかだが、どうせなら、このふたつの基本要素をともに満足させるような形のミステリーを読みたい、と思うのは、一読書家としては贅沢な願いだろうか。今回紹介する本書『人魚とビスケット』を読み終え、その内容や構成にあらためて目を向けたとき、物語の内容そのものはごく単純なものでありながら、著者が上述の「どのように」と「なぜ」という二枚のカードを巧みに切ってみせることで、物語全体を非常に質の高いものとして完成させることができるという格好の例こそが本書である、という確信を得るにいたった。

 物語の発端となるのは、イギリスの新聞「デイリー・テレグラフ」に約二ヶ月にわたって掲載された個人広告である。それは「ビスケット」と名乗る人物が、「人魚」と呼ばれる女性に連絡を請うというごく短い内容のものであったが、彼が九年前のある出来事について出版を企画してくれる会社を募集するという広告を皮切りに、「人魚」、そしてあらたに「ブルドッグ」という人物が加わり、新聞広告上でお互いの意見をやりとりするという展開をみせるようになる。話の流れから推測すると、この三人はかつて、インド洋を14週にわたって漂流した生存者であること、そしてどうやら「ナンバー4」という名の男のことで、何か大きな対立があったことが見えてくる。

 この、いかにも謎に満ちた個人広告が、読者の興味をおおいに惹きつける要素であることは、言うまでもない。「ビスケット」や「人魚」など、けっして本名を明らかにしない、しかしその当事者たちのあいだでは通用する呼び名をもつ彼らは何者なのか、そして九年前、この四人の漂流者のあいだで何が起こったのか? 本書ではあくまで第三者の立場にある語り手の「私」――作家としての成功を夢見ながら、今就いている仕事も手放せずにいるうだつのあがらない男――が、今回の件を新たな小説のネタとするため、その全容をあきらかにしたいと行動を開始するという展開となり、ミステリーとしては、いわば隠された事件の全容を追うと同時に、語り手を探偵役とすることで、彼が「どのようにして」その事件の真相に迫っていくかという点で、読者の興味を惹こうとする意図が見えてくる。

 新聞広告に載った内容からその「事件」についてあらかじめわかるのは、三人の男とひとりの女が、けっして広いとは言えない筏の上で、ほぼ百日ものあいだ漂流したという事実のみである。出版社に勤めるヘンリーという男が、いみじくも「おんなじことの繰り返し」と語るように、たんにその様子を克明に描いていったとしても、ひとつの物語としてはけっして大きな魅力を備えているわけではない。もっとも、本書のなかで「私」が「ビスケット」と「ブルドッグ」と直接会う機会を与えられ、じっさいにその漂流の日々のことを語るようになると、船の沈没の混乱からはじまり、狭い救命艇(ラフト)に乗り合わせることになった四人それぞれの心理状態や揺れ動く力関係、さらには身分や人種の違いが漂流という非日常のなかでおよぼす影響など、多分に緊迫する場面が多く、けっして単調なわけでないことがわかってくるのだが、本書のなかで重要なのは、その漂流の期間に何らかの謎があることをほのめかし、「私」という探偵役の人物をその謎に「どのように」迫っていけるか、といういかにもミステリー的なアプローチだけでなく、「なぜ」というもうひとつのアプローチも用意していた点である。

 まず思いつくのが、「ビスケット」と「ブルドッグ」のふたりが、語り手の「私」にその漂流の記録を書くように依頼し、語って聞かせることになった理由、そこに隠された真意だ。九年前の漂流の出来事を出版物として発表する、という行為は、新聞記事掲載時に「ビスケット」がほのめかしていたものでもある。だがそれは、「ビスケット」の「人魚」への愛ゆえのもの、「人魚」と再会したいという「ビスケット」の、言わば脅しの手段であって、それ以上の意味があるわけではなく、「ブルドッグ」などは当初、そのような行為に反対の立場をはっきりと示していた。にもかかわらず、「私」が彼らの漂流の話を速記するために呼ばれたとき、そこには「ビスケット」とともに「ブルドッグ」がいて、しかも今回の話は「ブルドッグ」のほうが主導権を握っているふしさえあった。いったいなぜ「ブルドッグ」は、急に自分たちの体験を文章化するつもりになったのか。そしていまだ姿を見せていない「人魚」の存在は、この物語にどのような意味をもたせることになるのか。

 もうひとつ注目すべき点があるとすれば、それはかつての漂流者三人のなかで話題になるものの、いっこうに姿を見せないばかりか、広告に自分の意見を載せようともしない「ナンバー4」の存在だ。彼は他の三人と違い、呼び名も数字というじつにそっけないものであり、また「ビスケット」と「ブルドッグ」の話によると「野卑なけだもの」だということであるのだが、「私」によってまとめられた漂流の記録を読んでいくかぎりにおいて、彼がけっしてそうした言葉にあてはまるような人物でないことがわかってくる。違いがあるとすれば、他の三人が特権階級であるのに対して、「ナンバー4」は沈んでしまった船の従業員であり、また混血児であり、片足をなくした障害者でもあった、という点である。だが、「私」が書き記した記録のなかでの「ナンバー4」の扱いが、上述のようなものであるとすると、じつはちょっと矛盾が生じることになる。なぜなら、「私」がそのとき会ったのは「ビスケット」と「ブルドッグ」のふたりであり、記録はあくまで彼らふたりの口述をもとにしている以上、彼らがけっして良い印象をもっていない「ナンバー4」の扱いが「野卑なけだもの」然としていないのは、かえってリアルさに欠けることになるからだ。そしてそんなふうに考えたとき、記録としては完成形といえる本書は、じっさいにいつ書かれたものであるのか、そしてそこには誰の意図が反映されているのか、という「なぜ」が存在することに読者は気づくことになる。

 ごく限られた空間で、水も食料もままならないまま、いつまでつづくかもわからない漂流をつづけることを余儀なくされた四人の男女――自分の命がいつ、どんな形で危険にさらされるかわからない、というある種の極限状態が、最終的にどのような結果をもたらし、そして生存者たちの今があるのか、ぜひとも本書を読んでたしかめてもらいたい。そして、最後まで読み終えたときに、本書のタイトルが他ならぬ『人魚とビスケット』となっていることの真の意味を、あらためて考えてみてほしい。(2007.11.14)

ホームへ