【講談社】
『マラケシュ心中』

中山可穂著 



 誰かに恋をするというのは、自分のものであるはずの心が、自分以外の誰かによって占められていくことである。その人のために生きたい、ともに喜びを分かち合いたい、何かしてあげたい、という思いやりの精神も、その人のすべてを手に入れたい、自分のことだけを考え、自分だけを見ていてほしい、という醜い独占欲も、すべてはそうした心の作用から生じてくるものであるが、どちらにしろ、それは必ずしも楽しいことばかりとは限らない。なぜなら、恋を認識したその瞬間、人は自分が圧倒的にひとりなのだということを思い知ってしまうからだ。だが、それは同時に、自分がまぎれもない人間――理性と感情、精神と肉体という相反するものを兼ね備えた、不安定でやっかいな、しかしだからこそ無限の可能性を秘めた人間であることを認識する瞬間でもある。

 本書『マラケシュ心中』に登場する緒川絢彦は、短歌を詠む歌人である。その歌は激しい性の歓びを生々しく表現し、当人もまた何人もの女性と関係をもつことを厭わない。脈々と受け継がれてきた和歌の定型、その形がもたらす美にあえて背を向け、血の滴り落ちるようなどろどろとした同性愛の歌を詠む、歌壇の異端児――それが「絢彦」という男の名前をあえて冠したひとりの女性の姿である。

「わたしが歌を詠むためには、もうひとりの自分が必要だったからでしょう。ほんとうの自分というか、堂々と女性を愛せる、誰にも後ろ指さされない、強い自分が」

 女の体の上で歌を詠むと豪語し、肉体、とくに女性の体がもたらす快楽こそが恋愛の喜びだと信じて疑わなかった絢彦であるが、彼女が歌壇で10年かけて築いてきたそのプライドは、小川泉という女性との出会いによって大きく揺るがされてしまう。そう、絢彦は、どうしようもなく泉に惹かれていく自分の心に気がついてしまったのだ……。

 本書における恋愛の基本は、女性どおしのあいだで起こるものを前提としている。ときになまめかしくお互いの体を求め合うような性愛を赤裸々に描いているにもかかわらず、そこに「同性愛」という言葉にありがちな背徳的なイメージがいっさい介入してこないのは、一人称たる絢彦が、同性愛という恋愛感情を絶対的に肯定しているからに他ならない。自分は女性だが、女性を愛するし、また女性しか愛せない、というゆるぎない意思――たとえ、それが彼女にとっての唯一の真実であったとしても、世間一般には異常愛でしかないその恋愛観を武器に、歌壇という閉鎖的な場で自分の確固たる位置を確保するまでに、いったいどれほどの労苦があったのかを想像するのは難しくないだろう。

 そんなゆるぎない意思でまっすぐ突き進んできた絢彦の恋愛のスタイルは、基本的にすべてかゼロか、の二者択一しか存在しない。愛して愛して愛し抜くか、でなければ完全に関係を絶ってしまうか――本書で注目すべきなのは、同性愛そのものではなく、むしろ激しく潔い恋愛しか求めない絢彦が、泉の心のなかに潜む、激しい恋愛で身を焦がしてみたいという欲望をいかに引き出していくか、という点にこそある。

 小川泉は、歌壇では重鎮とも言うべき老人、小川薫風の妻である。今でこそ袂をわかってしまってはいるが、絢彦にとっては歌を詠むことの喜びを教えてくれた恩師であり、唯一頭のあがらない神のような人物でもある。そして泉自身、かつて体験したつらい恋の果てに誰かを愛することから逃げ、まるで尼僧のように薫風との生活をつづけている。彼女にとって恋愛とは、いつか必ず終わってしまうもの、時とともにまったく別のものへと変貌してしまうもの、という意識がある。

「お互いとても愛しあっていたのに、時間とともに心変わりしたり、厭きたり、裏切ったりして、最後には必ず憎しみが残る。わたしはそういうのには耐えられないの。恋愛が色褪せていく過程を見なくてはならないのがとてもこわい」

 泉自身、絢彦のことがけっして嫌いなわけではない。むしろ、密かに惹かれているくらいだと言ってもいい。だが、恋愛そのものに怖れを抱く泉は、恋愛ではなく友愛――お互いをけっして束縛せず、自由で対等な関係でいることを望む。しかしそうした関係は、絢彦の恋愛観とは完全に対極の位置にあるものである。彼女にとって女性とのセックスは、それがもたらす性愛は、まさに人間として生きることの喜びと同等なものなのだ。泉にも、その喜びを知ってもらいたい。だが、それには薫風という大きな壁を乗り越えなければならない。けっして結びつくことのない泉との、生殺しのような日々に耐えかねて、外国を転々とするようになる絢彦に、泉の心は少しずつ変化を遂げていく……。

 本書の物語に共感できるかどうかは、ひとえに絢彦という人物の直情的な恋愛観、その激しく潔い性のあり方に共感できるかどうかにかかっているように思われる。「人の心はいつかは変わる」「恋はいつか終わってしまう」と言う泉に対して、「いや、永遠に終わらない恋というのもある」と返す絢彦の言葉は、見方によってはなんとか泉を口説き落とそうと、都合の良い言葉を並べているだけではないか、と意地悪くとらえることもできるだろう。だが、よくよく考えてみれば、あくまで同性としか恋をしない絢彦にとって、女性を口説き落とし、セックスすることは、純粋に性の歓びを味わい、自分はたしかに人間として生きている、ということを再確認する以外には何ひとつ得るもののない行為でしかないのだ。そこには、たとえば男が女と、あるいは女が男と付き合うときに心に抱く、結婚やその後の生活、社会的地位の確保、身を落ちつけたい、といった、この世で生きていくうえで重い現実としてのしかかってくるさまざまな打算や思惑といったものはいっさい存在しない。そしてひとつだけたしかなことは、絢彦があくまでこだわる自分の恋愛観――それがたとえどれだけ生々しく、快楽主義的な様相を呈していても、そこには恋愛という不可思議な心の動きが抱える純粋さが存在する、ということである。

 人はどうしてひとりでは生きられないのだろう。人はどうして自分以外の誰かを愛さずにはいられないのだろう。ときに甘美で、ときに残酷でさえある恋愛という感情の高ぶりを、そのありのままの情念を、読者はきっと本書のなかに見出すことになるに違いない。(2003.07.07)

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