【早川書房】
『時の地図』

フェリクス・J・パルマ著/宮崎真紀訳 

背景色設定:

 登場人物たちが時間という絶対的枠を超えて過去へ、あるいは未来へ跳躍するという、いわゆる時間跳躍ものとして分類される小説に、私はいったいどれだけの数、触れてきただろうか。たとえば、新城カズマの『サマー/タイム/トラベラー』のなかで、登場人物たちが時間跳躍を扱った小説をカテゴリ分けしてまとめていくシーンがある。そこに挙げられている作品の多さは私にとっても意想外なものであったが、それは裏を返せば、いっけんするときわめて特殊なテーマと思われる時間跳躍が、いかに多くの作者の心をつかみ、それを題材とした作品を書いてみたいと思わせる魅力をもつかを雄弁に物語るものでもある。

 時間跳躍ものの面白さは、ミステリーにおける謎解きの醍醐味と見たようなところがある。なぜなら、時間跳躍はそれ自体がひとつの大きな謎であることもさることながら、何より時間跳躍する人間の主観的時間の流れが、私たちの認識するごく一方的な時間の流れの制約から解放されることになるからである。たとえば、物語の冒頭で提示される謎のそもそもの要因が、その謎に遭遇した登場人物本人の、過去への時間跳躍によって引き起こされたものである、という真相へとつなぐことが許されるのが、時間跳躍ものの小説のもつ特長なのだ。じっさい、私がこれまで読んできた時間跳躍ものは、時間跳躍そのものの原理には詳しく触れず、むしろ時間跳躍という要素によって必然的に生じる謎とその真相を、いかに劇的に物語のなかに構築していくかという点に腐心していたし、その方向性はけっして間違いではない。

 今回紹介する本書『時の地図』の舞台となるのは、十九世紀末のロンドン。全部で三部構成となっている本書の第一部では、大富豪の息子であるアンドュー・ハミルトンがピストル自殺をすべく行動を起こすところから物語ははじまるのだが、この男、八年前に「切り裂きジャック」に愛する女性を殺されてからずっと命を絶ちたいと思っていながら、けっきょく八年も引きのばし続けてきた優柔不断なところのある青年であり、いざ決行しようというその日も、拳銃をどれにするかでぐずぐず迷っていたりする。さらには物語構造の外側にいる、本書の作者らしき一人称の語り手が、ときに物語の本筋とはあまり関係のない話をはじめたりと、とかくその冗長さばかりが目立つ内容となっているのだが、この冗長さがその真価を発揮するのは、じつは時間跳躍という要素が絡んできたときだったりする。

 そう、この書評の枕からもお分かりのように、本書の世界ではH・G・ウエルズの『タイム・マシン』という小説が大ブームとなり、タイムトラベルの話題が最新の流行となってもてはやされているのだ。そして驚くことなかれ、ついにはじっさいに未来のロンドン――より正確には西暦二〇〇〇年のロンドンへの時間旅行を企画する会社まで登場する。自殺を思いとどまらせたいとこのチャールズ・ウィンズローから「マリー時間旅行社」のことを聞かされたアンドリューは、もし過去にタイムトラベルすることができるなら、八年前の悲劇を未然に食い止めることができるかもしれないことに気がつくのだが……。

 さて、ここで登場する「マリー時間旅行社」であるが、この会社の存在は、じつは本書全体をつうじて重要な位置づけにある。たとえば第二部は、今の淑女としての生活を強いられる時代に飽き飽きしている女性クレア・ハガティが、「マリー時間旅行社」のツアーを利用して西暦二〇〇〇年への逃亡を企てるという筋書きであるし、第三部ではH・G・ウエルズと「マリー時間旅行社」の社長であるギリアム・マリーとの秘められた確執が明らかになるという展開が待っている。それぞれの物語において、その核心部分と深くかかわっている「マリー時間旅行社」――はたしてその正体が何なのかという点はとりあえず置いておくとして、本書を読み進めていくことで少しずつ掴めてくるのは、その時代におけるタイムトラベルという概念が、純粋に人類の科学技術によってより身近なものとなりつつある、という雰囲気である。より詳しく言えば、自動車や飛行機といったものと同様に、時間という四次元軸を自由に行き来できる機械の発明が、もうすぐ手に届くところに来ているかのような雰囲気だ。

 言うまでもないことであるが、本書より一世紀以上も先の世界を生きる私たちは、時間跳躍が可能なほどの科学に、いまだ手が届いていないことを知っている。それどころか、科学的に時間を超越する理論すらまともに確立されてもいない。そういう意味で、時間跳躍はSFの分野から抜け出してはいないし、時間跳躍ものの小説の大半が、時間跳躍そのものの原理については「不思議な力」的な位置づけとなっている。そんなふうに考えたとき、私たちが知るところの時間跳躍ものの小説と、本書における「マリー時間旅行社」がタイムトラベルの原理として説明している内容が、じつは非常によく似通ったものであることが見えてくる。そして同時に、「マリー時間旅行社」に大金を払ってタイムトラベルを体験する客たちが、まるでグランドキャニオンに旅行に行くのと同じ感覚でいることの、ある種の気軽さ、悪く言えば呑気さというものについても、どうしても目を向けざるを得なくなってくる。

 イギリスじゅうどこへ行ってもこの小説の話題でもちきりだったが、内容にこめられた警告に気づくものはいなかった。ウエルズがこの小説でひそかにしかし痛烈に示そうとしたのは、このまま現代の硬直した資本主義が続けば行きつくことになる未来の世界観なのである。どうしてみんな気づかない?

 全部で三部構成となっている本書の、それぞれの物語で主役となる人物――アンドリュー、クレア、そしてウエルズの三人は、それぞれ時間跳躍について切実な願いを込めている。それは、あるいは過去の行動を心底後悔し、その過去を変えることで自身の未来を歩む原動力にしたいと望み、あるいは息のつまりそうな不自由のなかで生きるしかない現状を打破するものとしての未来に希望をいだき、あるいは人間の科学技術への安易な信奉がもたらすかもしれない大きな危機への警鐘を、時間跳躍という形で鳴らしつづけるという形をとっているが、では彼らにとっての時間跳躍とはどのような位置づけとなっているのか――たった一度きりの人生を生きるうえで、時間跳躍という要素がどんなふうにかかわっていくのかを考えたとき、本書における時間跳躍の真に意味するところが見えるようになる。

 空を飛ぶことも、遠く離れた人と会話をすることも、映像を記録し再生することも、発明されたそのときはどれほど画期的な出来事であったとしても、それがやがて人々の生活に浸透していけばありふれたものとなりうるし、またそこに娯楽としての要素も生じる。はたして時間跳躍という要素はどうなるのか、という点もふくめて、本書がもたらすめくるめく人間ドラマをぜひたしかめてもらいたい。(2013.01.16)

ホームへ