【メディアファクトリー】
『地図男』

真藤順丈著 
第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞作 



 私が暇さえあれば小説を読む理由のひとつとして、物語に対する憧れというものがある。かつてはゲーム小僧だった私がファミコンなどのテレビゲームにのめりこんだのも、そのゲームのなかにたしかな物語性を見出していたからに他ならない。物語とは、言ってしまえば虚構の世界、つくり物の絵空事であり、私たちの空腹を満たしてくれるわけでもなければ、金銭といった現実的富をもたらしてくれるわけでもない。私たちがこの世界で生きていくうえで、何かの役に立つわけではないもの――だが、たとえば米原万理の『オリガ・モリソヴナの反語法』において、ロシアの強制収容所に囚われていた人たちが、まともな食事にありつけず、厳しい寒さをしのぐものにも事欠くような苛酷な環境のなかにあって、物語を語り、演じていくこと、虚構の世界のなかに没頭することを強烈に求めていったというエピソードに触れると、たんに生命を維持していくことだけが、人間として生きているあかしというわけではないことを痛感させられる。

 まぎれもない現実に目を向け、そのなかで生きていくというのは重要なことだ。だが、現実というものはけっして人に対して慈悲深いわけではない。物語はたしかに虚構のつくり話でしかないが、その虚構を生み出しているのがまぎれもない人間、私たちと同じ人間である以上、その物語のもとになっているのは、その人が体験してきたこの現実、リアルな世界そのものということになる。そういう意味において、物語というのは現実世界の別の側面、別の切り口でもあるのだ。人は、常に厳しい現実を見つめつづけていけるほど、強いわけではない。だが、自分たちの存在する世界が、自分たちの人生がけっして厳しく辛いものだけでないということを、ほかならぬ物語が語ってくれるのであれば、私たちはそうした物語に触れることによって、現実の厳しさや辛さを乗り越えていく力を得ることもできるはずだ。何より、私たちは美しいものを求めているし、そのためにこそ「世界」を創造しようとさえする生き物なのだから。

 あふれている。物語が横溢している。――(中略)――まず語りがあって、語るついでに記しているらしい。自身が立っている、あるいは歩いている場所をふくむ地図帖の頁に、その土地の物語を――

 本書のタイトルにもなっている『地図男』とは、一人称の語り手である「俺」が勝手にそう呼んでいる、年齢不詳の男のことである。フリーの助監督として、映像として使えそうなロケーションを探して日本のあちこちをめぐっているときに地図男と出会った語り手は、彼の驚異的な空間認識能力――市町村や番地といった情報的なものはもちろん、現在地点からの距離やそこで見ることができる景観の詳細まで、地図検索ソフトなどではとうてい知ることのできない情報を諳んじてみせるという芸当に度肝をぬかれ、それ以来、神出鬼没のその男となぜかよく出くわすようになっていた。だが、語り手が何よりも興味をもったのは、地図男がもっている一冊の古びた地図帖、それも、矢印や記号をはじめ、細かい書き込みで埋め尽くされている地図帖だった。地図男からその地図を見せてもらった語り手は、そこに書き込まれているのが物語の断片であることを知る。それも、ひとつやふたつではない。何十という物語で満たされている地図帖……。

 けっして人に読ませることを想定していない、それゆえに、物語の展開とともに書き込み位置も飛び飛びとなっていて、追うのがこのうえなく難儀な物語群は、いったい何のために書かれているのか。そしてこの「地図男」とは何者なのか。現実の地図帖を物語内物語の舞台として、いわば入れ子状の物語を複数配置するというアイディアや、本書そのものがもつ物語性といったものはとりあえず置いておくとして、本書のなかで注目すべきなのは、地図という、このうえなく現実的なアイテムと、物語という虚構の産物とを融合させることによって生まれてくるものである。

 地図というのは、現実の世界の形を平面上に置き換えた一種の記号である。私たちは地図にある記号を読み解き、それを現実世界とあてはめることによって、知らない土地を移動したり、目的地を特定したりすることに役立てている。そういう意味で、地図は現実世界と密接なつながりをもつものでもあるし、またそうでなければ地図としての存在意義は失われてしまう。だが同時に、地図というのは記号にすぎない、という言い方もできる。たとえば、宝物のありかが示されているという地図を想定してみよう。おそらく、私たちが想像する地図というのは、現在出版社から刊行されているような精密な地図ではなく、古びた巻物に記された、非常に抽象的な地図――おおまかな地形の上に「バツ」印がついているような代物だろう。それは、関係者にとっては宝のありかをしめすものであると同時に、無関係の人たちから宝のありかを隠す、あるいは容易に宝を発見させないという相反する役割を内包しているのだ。そして、本書のアイディアは、まさにそうした地図の性質を取り入れたものである。

 現実の地図のなかに、いくつもの物語が横溢している。語り手はその物語に惹かれるものを感じるが、物語は人に読まれることを想定されていない。つまり、語り手、というよりは、むしろ「地図男」以外の人たちにとって、彼の地図帖は「宝物のありかを示す地図」と同義だと言うことができる。そして、それが「宝物のありかを示す地図」であるとすれば、その「宝物」が何なのか、それがどのような形をしたものなのか、知りたいと思ったとしても不思議ではない。本書の読みどころ、本書のなかの物語を加速させていくのは、まさにその「宝物」的な要素である。

 音楽の天才児が三歳で発表するファーストアルバム、東京二十三区の区章をめぐるプレイヤーたちの戦い、リストラされたサラリーマンが山賊となっていく顛末、そしてふたりの少年少女の出会いと、その悲しい結末の物語――地図男の地図帖に書かれた物語は、地図という性質上、常に移動をともなうものとなっている。地図という記号となった瞬間に、情報という意味では古びていく運命を帯びた地図は、しかしそこに物語という動線をもちこまれることによって、あらたな世界を再構築していくことになる。それは、私たちの生きる世界を土台としていながらも、決定的に異なるものがある虚構の世界である。地図男とは、その別世界を生きる物語の象徴であり、また常に更新されていく「宝物のありかを示す地図」そのものでもある。そして、だからこそ「地図男」という要素は、私たちを魅了する力を秘めている。

 人は物語などなくても生きていけるものなのかもしれない。だが、物語のない世界、まぎれもない現実しか存在しない世界というのは、なんと味気なく、色あせて見えるものなのか。はたして地図男が、その地図帖のなかにどのような世界を構築しているのか、もし興味があればたしかめてもらいたい。(2009.01.08)

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