【講談社】
『魔王』

伊坂幸太郎著 



 たとえば、北朝鮮による拉致被害者の問題、たとえば、象徴としての天皇制の問題、たとえば、地球温暖化と環境の問題、たとえば、日本国憲法第九条の解釈と自衛隊の問題――私たちの生きるこの世界には、それこそ真剣に考えなければならない大きな問題が山積みとなっているが、こうした大きな問題に対して、個人としての意見をもち、きちんと主張していける人を、私は心から尊敬する。

 人は自身の身のまわりの問題、自分や家族の利害に直接影響してくる問題については、わりと真剣に考えることができるが、あまりにスケールの大きな問題、それこそ地球温暖化などの規模の問題になってくると、なかなか真面目に考えようとはしないし、そもそも容易なことでもない。なぜなら、たとえ世界がどれだけ広大なものであっても、大多数の人たちにとって、その世界は何の意味ももたないからであり、意味のないものをあえて自身の立場に結びつけて考えるには、たしかな知識と想像力が必要となってくるからでもある。

 かつて、ドイツの哲学者ショウペンハウエルは、『読書について』という著作のなかで、「読書とは、他人にものを考えてもらうことである」と述べた。ここでいう「読書」とは、現代ではインターネット上に氾濫している情報と置きかえてもいい。その気になりさえすれば、たいていの情報は容易に手に入る。だが、たんに情報として知っていることと、自身のたしかな知識として吸収し活用していくこととのあいだに大きな隔たりがある、という事実に、今の私たちはどれだけ意識的でいるだろうか。膨大な情報にアクセスできるというインターネット環境は、ただそれだけの事実をもって、ときに使い手に万能感をもたらしてしまいがちだが、本当に重要なのは、それら膨大な情報の真偽を判断し、取捨選択していく力であり、何より不特定多数の情報の洪水に流されていくことのない、確固とした自身の考えをもち、それを磨いていくことである。

「でたらめでもいいから、自分の考えを信じて、対決していけば」
「いけば?」
「そうすりゃ、世界が変わる。おまえが言ってたんじゃねえか。――」

 本書『魔王』は、表題作のほかに『呼吸』と名づけられたもうひとつの作品を収めたものであるが、このふたつの作品は時間軸として見てもひとつながりになっており、そういう意味ではこの二作品をもってひとつの物語としてとらえることができる。そして、これらふたつの作品は、お互いに非常に似かよった要素をもちながらも、ある種の対比を成してもいる。

 『魔王』の語り手である安藤は二十代の若いサラリーマンでしかないのだが、ある日、自分のなかに奇妙な能力が宿っていることに気がつく。彼自身が「腹話術」と名づけたその能力とは、他人に自分が思ったとおりの言葉を喋らせることができる、というもの。弟の潤也とは違い、常日頃から世の中を小難しく考えるのが癖になっている安藤は、自分が手にしたこの能力がどのようなものであるのかを知るために、機会を見ていろいろと実験を行ない、考察を繰り返していくことになるのだが、そうした個人的な事情とは無関係なところで、日本の政治の世界では、未来党の党首である犬養という人物が国民の注目を集めるようになっていた。

 国際社会においてけっして卑屈になることなく、正しいと思う主張はしっかりと主張し、また無茶なこと、間違っていることに対しては臆せずにNOの言葉を突きつける犬養の、物怖じしない堂々とした姿勢、そして何より、自身の利益や安全といったものを度外視する言動に、国民の多くが指導者としての魅力を感じつつあるなか、安藤は人々がまるであるひとつの流れに誘導されていくかのような、言ってみればファシズム的な雰囲気に呑まれつつある現状に危機感をいだくようになる。

 伊坂幸太郎の作品には、安藤の「腹話術」に代表されるような、ある特殊な能力、あるいは特殊な立場といった要素が物語を構成する重要なアイテムとなっていることが多いのだが、本書の場合、安藤がその能力を得たことによって、たとえば彼の日常が劇的に変化する、といったようなことはない。むしろ、彼の変化しない毎日を強調するかのように、物語は彼の何気ない生活の様子を追いつづけていくのだが、ではその「腹話術」は安藤に何をもたらしたのかと言えば、それは「考える」という行為だと言うことができる。

 その内容がどのようなものであれ、力をもったものは、必然的に考えざるを得ない状況に置かれる。『魔王』にしろ、潤也の婚約者である詩織が語り手となって、彼に宿ったある力の行方を追うことになる『呼吸』にしろ、その物語の流れは、まず「力の発覚」があり、次に「力の見極め」が来て、そしてはじめて、その力を何のために使うのか、ということを考えるに到る。

 はたして安藤は、そしてその弟である潤也は、それぞれ手にした能力を何のために使うことになるのか。その答えはじっさいに本書を読んでたしかめてほしいところであるが、性格的にも正反対だといえるこの兄弟が、しかし異能の力というものを前にして、そのアプローチの仕方はどうあれ同じような道筋をたどっていく、というのは興味深いものがある。そして、それとは対照的に、彼らの周囲では「考える」という行為について他人に依存していく風潮が少しずつ強まっていく。その違和感、どことなく異質な雰囲気は、安藤たちの日常がありふれた、誰でもあたりまえのようにおくっているものであればあるほど、極まっていくことになる。

 私たちをとりまくさまざまな問題に対して、私たちはどれだけ自分の力で考えているだろう。自分以外の誰かが考えたことをとりあえずうのみにして、それで満足しているというようなことはないだろうか。何かひとつの考えに固執することがかならずしも良いことだと言うつもりはないが、本書を読んでいくと、まるで安藤がことあるごとに自身に言い聞かせていた、「考えろ考えろマクガイバー」という言葉が、何か特別な響きを帯びてくるような気がしてならない。(2006.08.09)

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