【講談社】
『マオ』
−誰も知らなかった毛沢東−

ユン・チアン/ジョン・ハリディ著/土屋京子訳 



 私たちが生きるこの世界には言葉が満ち溢れているが、多くの人によって発され、書かれた言葉のすべてが真実を語っているわけではないことを、私たちはよく知っている。人は嘘をつくことができる。そしてその嘘は、当人が意識していることもあれば、無意識のうちに――それこそ自分自身さえも欺くような嘘をついていることもある。そもそも言葉というのは、たったひとつの事実に対する共通認識から生まれてきたものであるはずなのだが、人間が複雑な社会生活を営むようになるにつれ、しだいに言葉と事実とのつながりが希薄になり、むしろ言葉だけがやりとりされるようになってきた。最近世間を騒がせている耐震強度偽装問題や、民主党の偽造メール問題などを見ていると、ただでさえ見えにくくなってきている真実から、人々がますます遠ざけられているように思えてしまうのは、はたして私だけだろうか。

 たとえば、今の日本のインターネット回線のインフラが、ブロードバンドの浸透による動画などの多量のデータのやりとりという需要を満たすほど整っておらず、かなり危機的状況にある、という話を聞いたことがあるが、私たち個人が、その話がどこまで真実を語っているのかをたしかめることはもちろん、そもそも今の時点において、そんな危機が迫っていること自体、意識していない状態にある。もちろん、それは真実が目に見える形で出てきていないからであるのだが、たとえ目に見える形で出てきていたとしても、たとえば地球温暖化と珊瑚礁の破壊との関係のように、なかなか真実と結びつきにくいことがあることを考えても、物事の真実を言葉の力であきらかにしていくことが、いかに困難なことであるかがわかっていただけるかと思う。そして、真実というのはしばしば、私たちの想像をはるかに超えた、荒唐無稽なものであったり、むしろ呆れるほど単純であったりするものである。

 本書『マオ−誰も知らなかった毛沢東−』は、そのサブタイトルからもわかるとおり、中華人民共和国の建国者である毛沢東の生涯を書いたものである。「マオ」というのは、毛沢東の「毛」を中国語読みしたときの発音。中国共産党の創立メンバーであり、建国の父であり、また農民中心の革命方式を目指した革命家として、今もなお国内での影響力をもち、信奉者も多いといわれる毛沢東のことについて、私もそれほど多くのことを知っているわけではないのだが、ネットなどで調べてみると、中国の指導者になってからの大躍進時代や文化大革命といった愚劣な政策には批判的であるが、中華人民共和国の建国といった部分においてはおおむね評価されている、というのが大半の認識のようだった。そもそも、10億という国民をかかえた国の指導者、それも建国時の最高責任者であるからには、そこには指導者として、人の上に立つものとしての理想や気骨といったものがあるはずだと思うのだが、もしそうした意識をもっている読者がいるとしたら、本書の内容には少なからぬショックを受けることになるだろう。なぜなら、そこに書かれている毛沢東は、ひたすら自分だけが可愛いと思っている自己中心的なエゴの塊のような人物であり、誰ひとりとして心から信頼せず、恐怖と破壊によって自分以外のすべての人間を支配し、自分のプライドのためなら何万人の人間が犠牲になろうとあたり前だと考えるような、きわめて冷酷無比な性格をしているからである。

 上下巻合わせて1000ページを超える力作である本書は、上巻ではおもに毛沢東が生まれてから共産党への入党、中華ソビエト共和国時代や「長征」時代、日中戦争における国共合作などを経て徐々に権力を手中にし、ついに中華人民共和国の首席となるまでを、下巻では建国後のおもな政策や世界に対する動きから、毛沢東の死までをあつかっているが、徹頭徹尾貫かれているのが、およそひとりの人間として、そしてリーダーとして容認しがたい毛沢東の倫理観――「絶対的な自己中心性と無責任」「動乱と破壊に対する嗜好」によって突き動かされている毛沢東の姿である。この傾向こそが本書最大の特徴であることは間違いないが、その筆致に関してはほとんどが断定的なものであり、推測を含ませるような表現はまったくといっていいほど存在しない。それはまるで、毛沢東が人間的に極悪人であることを前提としたうえで本書を書いているのではないか、とさえ思わせるほどの徹底ぶりであるのだが、本書前書きにおける「十余年にわたる調査と数百人におよぶ関係者へのインタビュー」、そして膨大な注釈と参考資料によって裏打ちされたうえでの自信から来るものであるとすれば、まずはそれだけの歳月とエネルギーを費やして、まぎれもない真実の姿に迫ろうとしたその気概には並々ならぬものを感じずにはいられない。

 上述したとおり、物事の真実を見極めるのはけっして簡単なことではない。じっさいに自分の目で見、耳で聞いたことであってさえ、ときに人は自分の都合のいいように解釈してしまう弱さを持っている。なにより、本書に書かれている毛沢東には、まったくといっていいほど良いところがない。本書によれば、毛沢東は共産主義について理想をもっていたわけでもなく、どころか自分の出世に都合が悪くなれば簡単に国民党に鞍替えしてしまうような日和見主義者であり、農民に対して関心をもったことすらなく、日中戦争においては日本軍に抗戦するどころか、むしろ自分が中国を支配するために日本とソ連とで国を分割してもらったほうがいいとさえ考えていたり、中国の最高責任者になってからの超大国への野望も、国のためというよりは、むしろ自分が世界に対して影響力をもちたい、しいては世界を自分のもとにひざまずかせたいという利己的な欲望のためであり、そのために何百万人の国民が餓死しようと、核戦争が起ころうと、自分さえ無事ならどうなってもかまわないと思っていたことになる。

 それは、おそらく国の指導者としては最悪の人選であり、まさに独裁者というにふさわしいものである。本書を読み終えた私さえ、なぜこのような人間が国のトップになってしまったのかと思わずにはいられないのだが、過去の歴史において、そうした人間がしばしば国を支配していたという事実を考えたときに、ひとつだけたしかなことがあるとすれば、毛沢東という人物が、機を見ること、人の心――とくに恐怖や嫉妬といった負の感情をうまく刺激して、他人を思いどおりに動かすことについて、おそらくたぐいまれな才能をもっていたということである。

 本書を読んだ人がどのような感想をもつのかについては、個々の判断にゆだねるしかないが、現在も地図上に存在するひとつの国を支配した人間の生涯を描いた本書が、すべて真実を物語っているのだとしたら、私たちにとってけっして遠くはない大陸の国に対して、私たちがいかに盲目であったかということについて、考えずにはいられない。そして、本書を読むことによって想起されてくるひとつの疑念――真実の見えにくさという大きな疑念は、本書をたんなる他国の過去の出来事としてすませてしまうにはあまりに生々しく迫ってくるものがある。

 そう、毛沢東の支配した時代について、もし私たちがその渦中に生きていたとしたら、おそらく私たちも彼の巧妙な支配体制のなかに完全にとりこまれ、真実がまったく見えない状態にさせられていたかもしれないのだ。そしてそれは、けっして過去のことではない。私たちが生きている現代でも、私たちから巧妙に隠された真実というものが――もし知らなければ致命的となるかもしれない真実があるかもしれない、ということを、私たちに示してくれる。

 こうしたドキュメンタリーを読む楽しみのひとつに、そこにとりあげられた人物の、たんなる記号ではなく生きた人間としての姿を垣間見ることができる、というものがあるが、少なくとも本書においては、そうした楽しみはほとんどないと言っていい。それは、本書に書かれている毛沢東があまりに非人間的であるからに他ならない。そこにあるのは、非常に大きな孤独――虚無的ともいえるような孤独があるばかりである。すべての成功は自分のおかげ、すべての失敗は自分以外の誰かのせい、という姿勢を貫いた毛沢東は、常に暗殺などの身の危険を感じており、どれほど警備を強固なものにしてもけっして心安らぐようなことはなかったという。ひたすら自分の利益のことだけを考え、他人もまたそうであるはずだと考えていた毛沢東――けっして自分以外の誰も愛さず、また誰からも心から愛されることのなかった独裁者の、血と死によって彩られた姿は、空恐ろしくなるほどの虚無と孤独を描き出している。そういう意味では、本書はドキュメンタリーであるよりも、むしろどんな文学作品よりも深い孤独を描くことに成功した、ひとつの作品だということができるのだ。(2006.03.20)

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