【光文社】
『木曜日だった男』

G・K・チェスタトン著/南條竹則訳 



 ある人間がどのような人物なのかを判断する絶対的な基準というのは、厳密には存在しない。たとえば、あなたの目の前に「私はこういう者です」と言って現われた人物が、本当にそのとおりの人物なのか、どのように判断すればいいというのだろう。ビジネスマンのように思われたければ、髪をきちんとなでつけ、ビジネススーツに身をつつみ、それらしいカバンをもっていれば、それで充分だろう。少なくとも私服でいるよりは、タクシーを捕まえる確率は格段に上がるはずだ。名刺などはその気になればいくらでも偽造できるし、その連絡先には彼の仲間が待機していて、いかにもそんな会社があるように受け答えするかもしれない。さらに言うなら、仮にその人が正真正銘そのとおりの人物――たとえば警官――であったとしても、彼が警官として本当にふさわしい人物かどうかはまた別問題だ。

 ある人物を疑い始めれば、いくらでも疑うことはできる。逆に言えば、その人が本物であるかどうかを判断するのは、けっきょくのところ彼という人物を信頼するかどうかの判断にゆだねるしかないのだが、それはある意味で重い責任がつきまとう。人はたいてい見た目に騙されてしまうものであるし、また時間の経過や状況の変化によって、自分も相手も変化していく。この世に変化しないものなど何ひとつないし、また絶対の価値、絶対の基準、絶対の真理などというものも存在しない。どこかの警察署に所属していればその人は警官なのかもしれないが、それはけっして絶対の真理ではありえないのだ。これまでの書評のなかで、私はしばしば相対主義という言葉をもちいてきたが、それはある意味、何もかもが非常にあいまいな、寄る辺なき混沌のなかにあって、手探りで前に進んでいくようなものだと言える。

 侯爵が悪魔だと信じていた時、彼は悲愴な自信を抱いていたが、侯爵が味方であると知った今、その自信は奇妙なことに消えてしまった。そういうわけのわからない思いをさせられると、一体何が味方で何が敵なのか訊いてみたい心境になった。

 本書『木曜日だった男』に登場するガブリエル・サイムは、当初「法と秩序の詩人」という肩書きでロンドンの一画にあるサフラン・パークに登場し、無政府主義を奉じる詩人であるルシアン・グレゴリーと対峙する。自身の主義に異を唱えられたグレゴリーは、サイムを自身が属している無政府主義者たちの集会へと連れ込むのだが、そこでサイムは自分がじつはスコットランド・ヤードの刑事であることを明かす。お互いにお互いの秘密を明かし、しかもそのことを他の誰にも漏らさないという約束をしてしまったがゆえに、グレゴリーもサイムもその場では何の手も打てない状態になったのだが、今夜この集会で無政府主義中央評議会の七人のメンバーのひとりを選出するということを知ったサイムは、まんまとグレゴリーを出し抜いて自分がそのメンバーのひとりとして選出されるよう、集会を仕向けることに成功する。

 こうして、無政府主義を首謀する知性ある哲学者を秘密裏に取り締まるという任を帯びていたサイムは、評議会のメンバーのひとり「木曜日」として潜り込み、そこで恐るべき爆弾テロが計画されていることを知るのだが、この時点におけるサイムの基準はあくまで「スコットランド・ヤードの刑事」であって、「詩人」や「評議会のメンバー」といった肩書きは、かりそめの役割でしかない。読者も当然のことながら、そうした基準のもとに本書を読み進めていくことになるはずだが、物語がつづくにつれて、その基準を単純にあてはめることが本当に正しいのかという疑問が、どうしても生じていくことになる。

 その展開の具体的な内容については、じっさいに本書を読んでたしかめてほしいところであるが、そもそもサイムという登場人物が刑事になったきっかけが、じつは相当に胡散臭いものがあったりする。秘密任務ということで正規の手続きをとっていないような描写もあって、彼が本当に刑事という職業にあるのか――あるいはサイム自身が刑事だと思い込まされているだけではないのか、という点について、読者もまた判断のしようがないのだ。だからこそ、サイムが刑事であるという当初の基準がぐらついたとき、私たちの本書に対するスタンスもまた、大きく揺らぐことになる。

 サイムが属しているはずのスコットランド・ヤードが、はたして本物のスコットランド・ヤードなのか、という疑問は、裏を返せば彼の敵である秘密結社、神の実存を含むあらゆる価値判断を打ち壊すことを目的とする無政府主義中央評議会の存在そのものを危うくするものでもある。そしてそうした組織の実像が揺らいだとき、そこに属する者たちの基準もまた揺らぎ、敵か味方かといった判断もまた無意味なものとなっていく。では、そこに何があるのかと言えば、それは何を信じるかの観念であり、主義主張であり、またそうしたものに基づいて与えられた役割であり、行動である。

 無政府主義という信念と、法や秩序を遵守するという信念は、考え方自体は対極に位置するものである。だが、そうした信念をそれぞれの登場人物にあてはめたとき、その両者はちょっとしたことで入れ替わり、けっして定まることがなくなっていく。本書の場合、たとえばルシアン・グレゴリーは無政府主義を標榜する危険な詩人という立ち位置にあったはずであるが、いつのまにか穏健派としてサイムに出し抜かれてしまうことになった。そのサイムにしても、本来は法と秩序を司る刑事という立ち位置にありながら、まんまと無政府主義の一味としての地位を勝ち取ってしまう。そこにあるのは、当人の信じている信念が、けっしてその人物の性質を決定するわけではない、ということだ。

 この書評の冒頭にも書いたが、人はその見かけにまんまと騙されてしまう。だが、自分がどのように思っているのかよりも、自分が周囲にどのように見られているのかのほうが、社会通念としての真実となってしまうのであれば、はたして私たちは何を拠りどころとして生きていくべきなのだろうか。

 敵だと思っていた人物がじつは味方であり、味方だと思っていた人物が敵となる、というそれまでの基準の逆転は、物語としては盛り上がる展開であるし、ミステリーにかんしてはその点こそが本質だ。だが本書の場合、その要素はむしろ私たちの信じていた基準や価値観を根底から覆しかねないものである。そういう意味において、本書のサブタイトルにある「一つの悪夢(a nightmare)」という表現は、まさに的を射たものだと言えよう。(2010.05.31)

ホームへ