【講談社文芸文庫】
『万徳幽霊奇譚/詐欺師』

金石範著 



「自分探し」という言葉を、少し前までよく耳にしていたことを思い出す。けっして何物にも左右されず、誰にも縛られることのない、まぎれもない自分自身――それは、人間として持ちえる、最高の栄誉だと考えていい。なぜなら、現実を振りかえったときに、大部分の人たちがいかに弱く、いかに容易に移ろい、また何かに属せずにはいられない生き物であるか、ということを、私たちは何度も何度も思い知ることになるのだから。

 西欧の近代は、それまで人々を定義してきた家柄や血縁、生まれ育った土地といったものから、個人として独立することからはじまったのだと言われている。19世紀の西欧文学を代表するロマン主義小説のテーマが「愛」に集約されていったのも、そうした背景があるからだ。だが、この「今」という時代――確かなものなどどこにもなく、何もかもがあまりにも簡単に瓦解し、変化していくこの時代の中で、私たちはあらためて疑いの目を向けずにはいられなくなっている。「まぎれもない自分」などというものが、本当にこの世に存在するものなのだろうか、と。

 深い谷間の奥の観音寺に一人の飯炊きの小坊主つまり寺男がいたが、人は彼をうすのろと呼んだ。そうでないときには万徳と呼んだ。またそうでないときにはただの寺男と呼んだ。中でも万徳というのがいっとうましな名前なのだが、それは彼の法名として付けられたものだ。――(中略)――それが彼の名前のいっさいであった。つまり彼は幼少からの名無しなのである。

 本書『万徳幽霊奇譚/詐欺師』は、在日二世作家である金石範の、ふたつの作品をおさめたものであるが、上の引用は、その中の「万徳幽霊奇譚」の冒頭である。主人公の万徳にはも正式な名前がない。法名を授かる以前には、犬の糞という意味をもつ「ケートン」というあだ名があっただけで、戸籍上では彼は生まれてもいない、この世に実在しない人間、ということになっているのである。

 そう、物語のはじまりからして、万徳はすでに「幽霊」のようなものであった、と言えよう。「万徳幽霊奇譚」というタイトルの意味するところは、作品を最後まで読むと明らかにされるのだが、この「幽霊」という言葉が、たんに人が死んだ後に化けて出てくるもの、という意味ではなく、この世界に存在するのかどうか定かではないもの、という意味としてとらえるとき、そのタイトルに、想像以上の奥深さが備わっていることが見えてくるだろう。

「まぎれもない自分」というものが、本当にあるのか、という疑問を、私はこの書評の冒頭で述べた。もしそれが本当なら、自分というものを定義するのはけっきょくのところ、家柄、血縁、土地という中世的な要素になってくるわけであるが、私を含めた日本人の多くは、自分が日本人である、ということを、普段の生活のなかでほとんど意識することがない。それは、四方を海に囲まれた島国である日本の、外国との接触を強く意識することなく育っていった文化や歴史のせいであるのも確かだが、何より自分が日本人であり、日本という国に属しているという事実が、私たちにとってはあまりにあたり前すぎて、意識することができないからだと言ったほうがいいだろう。

 本書を読むにあたって、著者の金石範が日系二世であるという事実――日本で生まれ、日本語に囲まれ、日本の文化に影響されて育ちながら、しかし自分自身は日本人ではないという事実は、けっして無視できる要素ではあるまい。自分の内にある「日本」を異質なものとして意識しながらも、しかし完全に朝鮮に帰属するには、故郷はあまりに自分の外にありすぎる。私たちがあまり前のように持っている「国への帰属」意識を持つことができない著者は、しかし名前を持たないがゆえにすべてから自由であった万徳と同じように、自分の夢とも言える故郷、済州島を現出させることに成功したと言える。

 本書に収められたふたつの作品は、どちらも済州島を舞台にした小説である。「万徳幽霊奇譚」は、人から笑われながらも子どものように素直で無邪気な心を持つ万徳が、生きながらにして幽霊にされてしまい、島にはびこる悪徳である暴力的な警官たちを恐怖に陥れるという話であり、「詐欺師」は、日本に渡るための金を手に入れるために叔母を騙した白東基が、最後には詐欺師ではなく武装ゲリラの主謀者にされてしまうという話なのだが、どちらもまぎれもないリアルであるというより、どこか都市伝説めいた雰囲気があるように見える。それはもちろん、本書にリアリティがない、ということではなく、作品の人物造形やちょっとした小道具の使い方などは秀逸でさえある のだが、物語の舞台となる済州島は、現実の――「韓国のハワイ」と呼ばれるリゾート地としての済州島ではなく、もっと古い、もっと土着的な、そして著者自身が抱く、異質なものとしての「日本」をも取り込んだ、自分そのものとしての済州島なのだ。

 自分がないゆえに生まれてもいない万徳は、誰からもうすのろとからかわれ、ソウルぼさつにさんざん鞭でぶたれたり、また肉体的な誘惑を受けても、それをどう受け止めればいいのかを知らず、ただ困惑するばかりであった。そして、生まれていないがゆえに死ぬこともなく、あるかないかわからない「幽霊」となってはじめて、万徳は突き動かされるように自ら考え、選択し、行動を開始した。『詐欺師』の白東基は、自分の名前に異質なものの象徴である「日本」を定義づけようとして失敗し、実際にはいるはずもない武装ゲリラの主謀者となることで、はじめてひとりの男となった。だが、そうした曖昧な、幻とも言うべきものにしか自己の拠り所を確立することができない、というのは、なんという哀しさであろうか。そしてその哀しさを、ユーモアとして描く著者の心には、いったいどのような感情があるというのだろう。

 本書の中でしばしば登場人物たちが使う「アイゴウ」という言葉――悲しいときも、嬉しいときも、驚いたり怒ったりするときも、つい口をついて出てくる、万能感嘆詞とも言うべきこの言葉にぶつかるたびに、そこにこそ幻を激烈なまでの熱意で故郷に昇華した著者のすべてが集約されているように思えてならない。(2001.09.08)

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