【集英社】
『ママ・グランデの葬儀』

G・ガルシア・マルケス著/桑名一博・安藤哲行・内田吉彦訳 



 何かを信じるという行為は、たとえばこれまで自分が積み重ねてきた日々の努力があったうえで、その努力の過程を「信じる」というのであれば美しいものであるが、ただたんに相手が何かをしてくれるのを信じて待っている、というだけでは、それは「信じる」というよりも、むしろ「あてにする」という言い方のほうがふさわしい。つまり、何かを信じるためには、その人が信じるに足るそれ相応の根拠が必要だということである。人が初対面の人間を信用しないのは、その人に対する情報が無きに等しいという意味で、まったく正しいことではあるが、たとえばそこに金銭という共通の価値観のやりとりが発生すれば、そのことを理由に人は自分自身を納得させることができる。

 本当なら、あらゆる事柄に対して自分の力でなんとかしていくことができれば最良なのだろう。だが、私も含めて人間というのはそこまで強くもなければ万能でもない。病気になれば医者の力が必要だし、トラブルが起これば弁護士の力が要る。他にも、やりたいことを実現させるために、私たちはじつに多くの人の手を借りて生きているし、そうやって私たちの暮らす社会は成立していると言っていい。だが、私たちがそうしたある種の信用のうえで生活できているのは、そうした社会のシステムを信じているからに他ならない。たとえ、そこに何の根拠もなかったとしても、である。そういう意味では、私たちはけっして盤石な基盤のもとに生きているわけではないのだ。

「そんなのんきなことではいけませんよ、大佐」先生が言った。「われわれはもう救世主を待っていられるほど若くはないんですから」

(『大佐に手紙は来ない』より)

 本書『ママ・グランデの葬儀』は、表題作を含む九つの短編を収めた作品集であり、それぞれの短編をまたいで共通の登場人物が出てくるところから、これらの短編の舞台となっているのが、いずれも同じひとつの町、それも、マコンドという名の架空の町であることが見えてくるのだが、私が本書を読み終えてふと思うのは、そこに登場する人々の「信じる」という姿勢についてである。

 たとえば、『大佐に手紙は来ない』では、退役軍人である「大佐」と呼ばれる老人が登場するが、彼はかつて議会が可決した軍人恩給の受給を何十年も待ちつづけている。最後の内乱が終わってから五十六年、大佐はもうかなりの高齢となっているが、彼がその長い歳月のあいだにしてきたことは、毎週金曜日にやってくる郵便船が、自分の受け取るべき恩給を運んでくるのではないかと待ちつづけることだけである。

 大佐の淡い期待は、毎週のように裏切られる。そして過ぎ去った年月は、彼に何かを与えるよりは、むしろ何かを奪うことのほうがはるかに多いものでもあった。生活していくために家のなかのものを売り払い、売るものがなくなって家そのものも抵当に入れ、それでも日々の食べるものにも事欠く様子は、冒頭におけるコーヒーを入れるときの様子ひとつからもにじみ出てきている。貧困は妻の心を卑屈にし、そしてひとり息子は、九ヶ月前に秘密文書配布のかどで銃殺されてしまった。残されたのは、誰も買い手のない時計と絵、そして息子が残した闘鶏用の軍鶏だけ。

 ここに描かれているのは、政府が給付してくれるはずの恩給を信じつづける以外にどうすることもできない老人の孤独な姿である。政情不安定な国において、恩給はあてにならないものであり、そうである以上、生活のために別の方策を見つけるしかない、というのが普通であるが、それでもなお「大佐」が受給を信じつづけているのは、彼にとってかつて参加した内乱での戦いが、彼の人生のすべてであったという見方もあるし、また貧困さゆえに、生活の糧を得る手段がきわめて限定されてしまっているという事情も関係している。ことに貧困というテーマは、泥棒に入って殺された息子の墓をたずねる母子を書いた『火曜日の昼寝』や、玉突き場に盗みに入った男のせいで、よそ者の黒人が犯人にされてしまう『この村に泥棒はいない』などにも共通するものであり、登場人物たちは、しばしば貧困ゆえに非合法な手段をとることになるのだが、重要なのは、それぞれの登場人物が――たとえば『大佐に手紙は来ない』では「大佐」が――信じているものの本質であり、それが意味するところでもある。

 「大佐」が退役軍人として恩給を受けるというのは、本書を読むかぎりきわめて正当な申し入れである。だが、その正しいことをしているはずの「大佐」の信用は、いっこうに報われることがない。金を稼いでいい暮らしをするには、ただ正直なだけではどうにもならない、という何とも鬱になりそうな現実が、そこにはある。『バルタサルの素敵な午後』のなかで、世界一美しい鳥かごをつくったバルタサルもまた、自分が信じるものを貫いたせいで、金を得るどころか無意味に散財してしまう。彼らは、はたして愚かなのだろうか、それとも、彼らのような人間が犠牲にならなければならない社会が悪いのか?

 人として正しくあろうとすればするほど、何かを信じ、すがりつくしかない、という状況――人が何かを信じるには、それなりの根拠がいる、ということを私はこの書評の冒頭で述べたが、「信じる」という行為は、たとえそれが何の保障もないものであったとしても、長くつづけばそれ自体がひとつの根拠となりうるのではないか、ということだ。そこには理屈や論理といったものは意味をなさない。ある種の願い、祈りのような人間の想いが、もしこの短編集のテーマのひとつであるとすれば、たとえば『土曜日の次の日』において、鳥の大量落下死からはじまる一連の出来事や、あるいは表題作『ママ・グランデの葬儀』におけるエピソードが、ともすると幻想的な、あるいは誰かの妄執めいた色彩を帯びてくることにも説明がつく。悪魔を三度見たという神父も、ママ・グランデという象徴的な名前の絶対者も、そして彼女を妄信する人々も、「信じる」という行為に蝕まれた者たちの姿であるとも言えるのだ。

 本書解説によると、著者の名を高めることになった『百年の孤独』につながる要素が多く、そういう視点でとらえても興味深い短編集であるが、『百年の孤独』の壮大で奇想天外な栄枯盛衰のドラマが、『大佐に手紙は来ない』のラストで、「大佐」の信じる対象が軍人恩給から息子の残した軍鶏へと移っていくときにも変わらない偏執的な思いの強さから来ているのだとすれば、人間が感じとる現実というものも、あるいは私たちが思っているほど確固としたものでもないのかもしれない。何かを信じること、信じたいと思う心が生み出したものを、ぜひたしかめてもらいたい。(2008.04.04)

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