【高陵社書店】
『ぼくたちと駐在さんの700日戦争』
−宣戦布告編−

ママチャリ著 



 以前に読んだある雑誌のなかに、現代教育にかんするコラムが載っていたのだが、そのなかで、今の学校の生徒たちのなかには、最初の授業で「この授業を受けると何の役に立つのか」と訊いてくる者がいる、ということが書かれていて、コラム全体の内容や書いた人の名前は忘れてしまったが、その部分だけは妙に印象深いものとして、私の記憶に今も残っている。授業を受けることにその意義を問うというのは、あきらかな損得勘定を意識した行為である。いったい何を基準とするのかは知らないが、その子どもはもしその授業に受けるだけの価値がないと判断すれば、授業そのものを拒否することも、選択肢に入れているのだろう。

 自分にとって価値のないこと、無駄だと思うことは徹底して排除していくという考えは、効率化という点ではきわめて機能的なものの考え方ではあるが、明確な価値を示すことのできない授業を受けることに対して、「時間の無駄」という判断をしてしまうのは、ある意味恐ろしいことでもある。なぜなら、無駄なことに時間を費やすことができるのは、他ならぬ人間だけに与えられた特権であり、おおっぴらにそれができるのは子ども時代だけだからだ。そしてそれは、いっけん意味のない事柄に対して自分なりの意味を見出していく作業も含まれている。授業の価値を訊こうとする生徒の存在は、労力を使わずにてっとり早く答えを手に入れようとする風潮を象徴するものであり、なるほど、現代教育のコラムに載せるテーマとしては納得の材料だとも言えるのだが。

 皆さんもきっとそうだと確信いたしておりますが、ガキの頃というのは、どういうわけか悪いことには頭がまわるもので、今や社会人のカガミとまでいわれるワタクシも、それはそれは悪い考えばかり浮かんだものでした。

 本書『ぼくたちと駐在さんの700日戦争(宣戦布告編)』は、そのサブタイトルにわざわざ「しょーもない」とことわっているとおり、著者が高校生の頃に引き起こしたさまざまなイタズラを、いくらか脚色をくわえて面白おかしく小説仕立てにしたもので、もともとはインターネットのブログで連載していたものを書籍化したものである。当時は悪ガキだった著者たちのグループから格好のイタズラのターゲットとなり、そのたびに大人気ない仕返しを繰り返してきた「駐在さん」からは「ママチャリ」と呼ばれていた著者が、はたしてどんなイタズラをしていたのかと言えば、たとえば買い換えたときに残った古い靴を、わざわざ橋のふもとにきちんと並べて放置したり、警察のネズミ捕りの前を、わざわざ自転車で猛スピードで駆け抜けてみたり、はたまた「駐在さん」のいる駐在所の机の上にエロ本を、それもわざわざきわどいページをひらいた形で置いていったりといった、本当に「しょーもない」ことばかりなのだが、この「しょーもない」ことを、たとえば「時間の無駄」なことと置き換えてみると、高校生だった著者たちの行為が、この書評の冒頭でとりあげた「授業の価値を訊こうとする生徒」とは対極に位置するものであることが見えてくる。

 そもそも友人のひとりが原付に乗っていて、スピード違反で捕まったからといって、その意趣返しに自転車でネズミ捕りの前を全速力で走りぬけたり、トロンボーンやシンバル、洗濯用の金ダライを持ってネズミ捕りのマイクロ波をさえぎったりするというのは、何の意味もないどころか、下手をすれば公務執行妨害になりかねないことである。そもそも、スピード違反で捕まったその友人が、それらの行為で、たとえば停学がもっと早く解けるというわけでもない。それこそ、今時の生徒たちがもっとも嫌う「時間の無駄」なことでしかないのだ。だが、その無駄なことにこのうえない情熱を傾ける悪ガキたち、そしてそんな悪ガキ以上に大人気ないやり方で仕返しをしかけてくる「駐在さん」の存在は、その行為が無駄なものであればあるほど読者の心を揺さぶるものがあると言える。それは、ただたんに馬鹿馬鹿しいという思いから生じるおかしさだけではない、どこか懐かしさをともなう「何か」でもある。

 個人的な話になってしまうが、今でこそ、たとえばエイプリル・フールにはしょーもない嘘を自分のサイトに仕掛けては悦に到っている私であるが、自分でいうのも何だが、小さい頃は頭に「糞」がつくくらい真面目な子どもだった。真面目というよりは、むしろ冗談を冗談として受け入れるだけの柔軟な発想、予期しない出来事を臨機応変に受け止めて楽しんでいくだけのノリの良さがどこか欠けていた子どもだったように思う。仲間と組んでだいそれたイタズラを仕掛けたことなど一度もないし、仮に自分がそんなイタズラをされるような立場にあったとしたら、おそらくそのときの私は、どうすればいいのかわからなくてその場に立ち尽くしてしまうことになるだろう。私という子どもは、周囲の大人たちからすれば扱いやすい「良い子」だったかもしれないが、自分の思いどおりにならない世の中との衝突を前に、なすすべをもたない弱い子どもでもあった。そしてその性質は、おそらく今も私のなかにある。

 人をだましたり、迷惑をかけたりという行為はけっして褒められたものではないし、警察沙汰というのはそれだけで洒落にならないことでもあるのだが、それでも本書におけるイタズラ行為が読者の心をなごませるのは、そのイタズラに損得勘定や打算といったものが皆無であるからに他ならない。そう、著者たちのグループはイタズラを仕掛けることで得をするどころか、むしろ損をすることが多かったりするのだ。コアなエロ本を自転車のカゴに結びつけられ、同級生の女子たちに見つかって変態呼ばわりされたり、イタズラで使うパンティーを加工処理中のところを女子に見つかって、やはり変態呼ばわりされたり、けっこう失敗したり恥ずかしい思いをしたりするママチャリたちであるが、彼らはそのことにけっしてめげたりはしない。何度も失敗をしながら、そのことを引きずらずにひたすら走っていけるというのは、たとえば金城一紀の『レヴォリューションNo.3』に登場する「ザ・ゾンビーズ」にも共通するものであるが、それは私にとっては、馬鹿げたことと切り捨ててしまうにはあまりにも惜しいひとつの才能である。

 本書のなかでママチャリたちが仕掛ける、数々のイタズラ――それは、ある意味ではこのうえない時間の浪費ではあるのだが、上述した「授業の価値を訊こうとする生徒の存在」を知って思ったのは、今時の子どもというのは、こうした無駄な時間をもてなくなっているのではないか、という危惧である。世の中はけっして損得勘定や打算で動くものばかりではない、という意識は、もしかしたら私の思っている以上に希薄になりつつあるのかもしれない。(2007.09.14)

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