【集英社】
『メイン・ディッシュ』

北森鴻著 



 私は一人暮らしの独身男性であるが、かなりマメに自炊をしているほうである。どれくらいマメかと言うと、ここ数年、特別なとき――たとえば、友達とどこかへ遊びに行ったときや、会社の同僚と飲みに行ったとき――を除いては、まず外食したり、コンビニ弁当を買ったりすることがなくなってしまったほどだ。何かの機会にこのことを人に話すと、大抵は感心されるのだが、別に料理が特別好きだということではなく、ひとりで外食するときの味気なさが嫌いなのと、なにより外食や弁当は金がかかる、という生来の貧乏性が、私を料理へと突き動かすだけのことなのだ。

 それゆえに、私の料理の基礎にあるのは、「安くて早く作れる」という二点に集約されるわけであるが、どうせ作るなら、そこに「うまい」という要素が付加されているに越したことはない。そのために必要なのは何なのか? ほんのちょっとした手間を惜しむか惜しまないかによって、料理の味が大きく変わってくることは、私のような者にでも経験上わかることだが、あるいは私は思うのだ。料理をおいしくする最大の調味料は、もしかしたら「誰かのために」という、今どき照れくさくなるような想いなのではないか、と。

 そう、特別な料理じゃない。どこにでもあるのに不思議なテイストを持つ料理。ミケさんのもうひとつの特技とは、料理をうまく作ることじゃない。料理で人の心を癒せることだ。

 本書『メイン・ディッシュ』の基本は、いくつかの小編が時系列に並べられた短篇集であり、小さな劇団「紅神楽」の古株にあたる舞台女優のネコさんこと紅林ユリエと、ひょんなことから彼女のマンションに居候することになったミケさんこと三津池修の周りで起こるちょっとした事件の謎解きを展開するうちに、物語全体もまた、ひとつの大きな謎――三津池修とは何者なのか――に向かって流れていく、という形式をとっている。そういう意味では、加納朋子の『ななつのこ』『ガラスの麒麟』と同類のミステリーだと言うことができるのだが、ひとつ大きな特長を挙げるとすれば、それは本書のタイトルからも察しがつくように、料理が謎解きの糸口となるという、料理ミステリーとも言うべき融合が生み出すものであろう。

 じっさい、本書の中には三津池修の手による数々の料理が登場するのだが、たとえば彼が作るフリッターに似た揚げ物の、クニクニした触感にうれしい悲鳴をあげる様子や、熱したフライパンにバターを落とし込んだときの、弾けるような音、超半熟のオムレツにナイフを入れたときの、卵がトロリと流れ出す瞬間、あるいは自家製チャーシューを使った特製チャーハンのつくりかたや、ブランデーでつけこんだ梅酒の濃密な芳香など、まさに五官をフルに刺激する表現力は、読者のお腹をおおいにうならせることになるだろう。それは、その長身にもかかわらず、まるで置き物のように気配を消すことができたり、ある日突然、放し飼いの猫のようにふらりとマンションを出たきり、何日も帰ってこなかったりと、なにかと謎の多い三津池修の言動にもかかわらず、紅林ユリエをして、ひさしぶりに戻ってきた彼に、まず「……お腹減ったよう」と言わしめてしまう、それだけの魅力をそなえた料理なのだ。そして、その料理を食するユリエほか、劇団メンバーたちの、狂乱にも似た食欲ぶりが、彼の料理をさらに引き立てているのは言うまでもない。

 料理が謎解きの大きなキーとなるミステリーにおいて、探偵役をつとめるのは当然のことながら三津池修である。その飄々として、どこか実体のつかめない、しかし鋭い洞察力の持ち主であり、なにより人の心をあたたかにする料理を生み出すことができる彼は、どこか北村薫の『空飛ぶ馬』に登場する噺家の円紫師匠を彷彿とさせるキャラクターであり、その性格が、彼の作る料理ともども、物語全体を――ときに痛ましい現実を突きつけることもある謎解きを、ふんわりと包み込むような雰囲気へと変えていく役目も果たしているのだが、そうした雰囲気づくりにけっして忘れてならない人物として、劇団の座つき作家で、物語の後半では覆面作家としても活躍していく小杉隆一がいる。
 人一倍敏感な感受性が、ときに想像力を暴走させ、真実の一歩手前まで迫りながら事実を極端に曲解させ、わけのわからない妄想めいた謎解きを自信たっぷりに語る小杉のキャラクターは、一見すると真の探偵役である三津池修の引き立て役でしかないように思われがちであるが、その彼のボケっぷりに、隠し事のできないストレートな性格の紅林ユリエの絶妙なツッコミが入ることで、どつき漫才のようなおかしさが生まれてくるのは認めなければなるまい。

 そう、本書は料理を題材にした短篇ミステリーでありながら、それ以上に、人と人との結びつき、そしてその関係の上を容赦なく流れていく時をテーマにした上質なドラマでもあると言えるのだ。 

 時系列に並べられた短篇集は、否応なく読者に時の経過を意識させる。読者はおそらくそこに、劇団の仲間たちが紅林ユリエのマンションで、三津池修の作るとっておきの料理をつつく、というあたたかい光景が、どんなふうに変化していくかを見ていくことになるだろう。そして、それは同時に、謎めいた三津池修の上を流れていった時間へとつながっていくのだ。

 時の経過は人の記憶を思い出へと変えていく。だが、奇しくも三津池修が語る「思い出がいつだってすばらしいと思えるのは、幸福な人間の驕りではありませんか」という言葉は真実である。世の中は、けっして幸福な人間ばかりで満ちているわけではない――だが、もしその気持ちが「誰かのために」という想いをより強く生み出すのであれば、やはりそれは、料理をおいしくするための最高の調味料として、少なくとも三津池修の場合は発揮されたのではないか、と思わずにはいられない。(2002.03.18)

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