【新潮社】
『舞姫通信』

重松清著 



 あなたにとって「死」とは、どのような意味を持つものであろうか。はるか先の出来事として漠然とイメージするにすぎない、およそリアリティのない存在だろうか。あるいは、常に自分のそばにいて、嫌でも自身の問題として意識させられるリアルな存在だろうか。

 たとえ自分自身のことではないとしても、身近にいる人の死は、同時に自身の生死について考えさせられるショッキングな出来事であることを否定する者はいないだろう。私の場合で言えば、ある人の死が、私の今勤める会社への入社を決めたのではないか、と思わせるところがある。
 私がその事故のことを知ったのは、今の会社に入って半年ほど経った頃である。もし、彼が死ななければ、私はもしかしたら、その会社に入ることさえできなかったかもしれないのだ。もし彼が今も生きていて、その会社で働いていたとしたら、私の人生はどんなふうに変わっていたのだろうか、と考えると、とても複雑な気分になってくる。そして、同時にこんなふうにも思うのだ。彼を襲った「死」は、何も特別なことではない、状況がほんの少し違っていたら、まったく逆のことが起こっていたかもしれないのだ、と。

 本書のタイトルにもなっている『舞姫通信』とは、物語の舞台となる武蔵ヶ丘女子学院高校が抱える、都市伝説のようなものだと言えるかもしれない。

 舞姫。私たちの憧れの人。あなたもきっと虜になってしまうはずの、舞姫。私たちは皆、舞姫の妹です。舞姫は、毎日、私たちを見守ってくれています。それを忘れないでください。

 舞姫倶楽部という、倶楽部の名を持ちながらけっして集団ではありえない倶楽部が、不定期に出す会報「舞姫通信」は、誰が、何のために書き、生徒たちに配られるのか――ただわかっているのは、舞姫倶楽部が愛する「舞姫」が、かつてこの高校の校舎から飛び降り自殺をした生徒の理想化された姿であり、そして、彼女が死んでから十年間、「舞姫通信」はけっして途絶えることなく毎年、誰かの手で書きつづけられている、ということだけである。

 本書の大きなテーマは「自殺」である。四月にその女子高に古文の教師として着任したばかりの岸田宏海は、五年前に双子の兄である陸男を亡くしている。舞姫と同じように飛び降り自殺を図った兄――なぜ死を選ばなければならなかったのか、いや、そもそも死ぬ理由があったのかどうかもわからないまま、ある日突然この世から永遠に姿を消した兄の存在は、澱のように宏海の心の底に溜まったまま、けっして双子の弟を解放しようとはしない。そして、リクオの恋人だった八木佐智子は、彼の死以降、不幸や不運を売り物にするタレントのマネージメントを手がけつづけている。

 宏海も佐智子も、今現在を生きている者、というよりも、リクオの死によってこの世に取り残されてしまった存在として描かれている。そのことをもっとも端的に示しているのが、城真吾だ。佐智子によって売り出された十六歳のアイドルは、恋人との心中に失敗してしまった、ということを除けばごく平凡な少年である。なぜ自分は生き残り、彼女は死んでしまったのか、自分は何のために今もこの世に生きつづけているのか――けっして答えの出ることのないその問いかけは、同時に宏海や佐智子の抱え込んだ問いかけでもある。そして、城真吾がテレビの前で放った言葉は、誰もが本当は気づいていながらけっして口に出そうとしなかった「自殺する意志の存在」をあらためて自覚させることになる。

 理由がなくても、いつでも、どんなふうにしてでも、人は死ぬことができます。僕は、たとえどんなに個人的なものだとしても、他人からは理解できないものだとしても、死ぬ理由を見つけました。それを幸福だと思っています。――(中略)――卑怯者でも弱虫でもいい、僕を罵ってください。でも、忘れないで、人は死ねるのだということだけは。

 リクオと宏海、リクオと佐智子、翔子と真吾、そして舞姫とムサジョの女子高生たち――死んでしまった者と生きている者とを比べたとき、本書の中では明らかに前者のほうが大きな存在感に満ち溢れている。そういう意味で、死者たちは自殺を遂げたことで、たしかにこの世の「何か」を変えることに成功したと言える。舞姫にいたっては、十年を経てなお「舞姫通信」という形で女子高生たちのなかで息づいている。だが、「いつでも死ねる」と自覚することと、実際に死ぬこととは、似ているようでいて、実はまったく違うことなのだということを、私たちは忘れてはならない。

 私はできれば百歳まで生きたいと思っている。だが、百歳まで生きたいと願うことと、実際に百歳まで生きることとは別問題だ。自分がいつ死ぬことになるのか――あるいは望みどおり百歳まで生きるかもしれないし、八十歳くらいで死ぬことになるかもしれない。もしかしたら、明日死ぬことだってありえるかもしれない。誰にもそのことは肯定できないし、また否定もできないことだ。そして、そのとき私たちは、生も死も、まったく等しい確率で自分を待ち構えているものであることを知ることになる。それは、年齢というものが、今まで生きてきた時間であると同時に、来るべき死へのカウントダウンでもあることと似ている。

 空に踊る舞姫を、私たちは愛します。
 地に横たわる舞姫を、私たちは愛します。

 私たちは今、瞬間瞬間を生と死のロシアンルーレットの中で過ごしている。そして私たちは、望むなら自らの意志で「死」を選ぶことができる。だが、生と死が等価である以上、「生」を選ぶことだってできるはずなのだ。空に踊ることと、地に横たわること――同じ愛すべきものだとしても、両者は決定的に違う。大切なのは、その違いなのではないだろうか。

 私もまた、死ぬことで何かを、誰かを変えることができるのかもしれない。だが、おそらく私はこれからも、「自殺する意志の存在」を意識したり、忘れたりしながら、それでも一瞬先の「生」を選択しつづけるだろう。少なくとも、今、この瞬間、私は生きている。そして本書は「自殺」をテーマにしながら、どんな物語よりも「生きること」を読者に訴えかける作品でもあるのだから。(2001.03.06)

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