【講談社】
『まどろむ夜のUFO』

角田光代著 
第18回野間文芸新人賞受賞作 



 養老孟司の『バカの壁』という作品のなかで、じっさいに「バカの壁」のことに触れているのは最初の一部分でしかないのだが、相手が何を言ってもそれにゼロをかけるフィルターをかけてしまっているがゆえに、根本的な部分で話がまったく通用しない人たちの存在を示唆したこの本は、ある意味で私たちがコミュニケーションのためにもちいている言葉の限界、しいては私たちがお互いのことを理解できるはずだという理想の限界を指し示したものだと言うことができる。
 それでなくとも、私たちは自身の主観のなかで生きる存在である。意識するしないに関係なく、自分の目で見たもの、耳で聞いたもの、そして自分の頭で考えた事柄が正しいと信じる傾向にある。それがかならずしも真実というわけでない、ということを知るためには、自分以外の多くの人々と出会ってコミュニケーションをとり、相手と自分がもっているそれぞれの主観を比較してみる必要があるわけだが、その相手が「バカの壁」をつくってしまうと、それまでおぼろげに見えていたはずの相手の主観がまったく見えなくなり、その関係性が凍結してしまうことになる。

 それゆえに、それまではちゃんとお互いに意思の疎通もできていて、お互いのことを理解しあっているはずだと思っていた相手が、「バカの壁」でその関係性を断ち切ってきたとき、私たちは少なからぬ動揺を受けることになる。なぜなら、それは自身がそれまで築いてきた価値判断のひとつに大きな揺さぶりをかける行為であり、またけっきょくのところ、人間は自身の主観から外に出ることができない孤独な存在であることを思い知らされるからに他ならないのだが、逆に「バカの壁」を周囲に張りめぐらせた相手が、それまでの関係性を犠牲にしてでも守りたかった主観とは、いったいどういうものなのだろうと思わずにはいられない。

 本書『まどろむ夜のUFO』は、表題作をふくむ三つの短編を収めた作品集であるが、いずれの作品でも共通しているのは、一人称の語り手である主人公が、それまでこうだと決めつけていた主観が大きく揺さぶられたときに何を思い、どのような言動をとることになるのか、という点である。

 たとえば「まどろむ夜のUFO」では、東京の大学に通うためにひとり暮らしをしているナナコのところに、高校三年になる弟のタカシがやってきて、夏のあいだだけいっしょに暮らすことになるという話である。母からかかってきた電話では、昔からUFOやオカルトといったものが好きだったタカシは東京にUFOを見るために出ていったのではないか、と話していたが、じっさいにタカシの話を聞いてみると、どうやらこちらに転校してしまった彼女に会いに来たらしい。だが、ナナコはじっさいにタカシの恋人というその女性と会ったことがない。会わせるように言ってもなにかと話をはぐらかしてしまう。そのくせ、その彼女のために手作りのクッキーやジャムまで熱心につくってしまうタカシの様子は、どこか普通ではない。タカシが東京に来るときに知り合ったという恭一という男も、魂のコミューンとかこの世は休暇だとかいった、訳のわからないことを話すプータローで、それまで知っていたタカシがまるで自分とはまったく異なった世界に住む人間であるかのような、そんな違和感をナナコは感じるようになっていく。

「もう一つの扉」のほうは、派遣社員の「私」の住むアパートでルームメイトをしているアサコがある日失踪するという話である。だが、失踪したアサコについて「私」はほとんど何も知らず、彼女を探すようなことはもちろん、何か事件に巻き込まれたのでは、といったことも考えようとはしない。そのうちアサコと付き合っていたという男が部屋にやってくるようになり、はじめて「私」はアサコとはどういう人だったのかを考えるようになる。

 本書の短編集のなかでは、けっして何か大きな事件がおこるようなことはない。おこることはないが、作品のなかの「私」は、自分がこれまでこれで正しいと確信していた事柄に対して、何らかの修正が必要となる事態におちいって、しかしその事態に必死になって抵抗しようとするのかと思えばそうでもなく、けっきょくはそれまでの価値観を守るほうにではなく、その変化の方向へと流されていくことになる。その構造がもっとも顕著なのが「まどろむ夜のUFO」で、ナナコがつきあっているサダカという男は、あらゆる行動に厳密な時間設定やルールを適用し、けっしてその枠から逸脱するようなことはしない。ナナコはそんなサダカに「世の中には明日とあさってがきちんと用意されて」いることを確認するかのような安心感をいだいているが、弟のタカシや、その友人の恭一の存在はサダカとは対極に位置するものであり、結果としてナナコのその「安心感」に揺さぶりをかけてくることになる。そうした静かな心の変化が、あくまで日常を描くかのような筆致で描かれている。

 私たちがどうしてこの世に生まれてくることになったのか、という疑問は、人間として生まれてきた以上永遠に付きまとってくる大きな命題のひとつであるが、そもそもそんな疑問がなぜ出てくるかといえば、それはけっきょくのところ、自分の居場所が本当にここなのか、ここでいいのかという疑問を背負っているからだ。そして「まどろむ夜のUFO」のタカシや恭一は、世間一般の常識からいえばけっして普通とは言えない状態ではあるが、彼らはたしかに自分たちの居場所を見つけている。「もう一つの扉」のアサコは、現実には失踪しただけで真相はわからないが、そこに取り残された「私」や、アサコと付き合っていた男は、失踪したアサコにタカシや恭一と同じような境遇を想像してみせる、という意味では同じような役割を担っている。そしてもうひとつの作品「ギャングの夜」では、そのどこかにあるはずの居場所を探してさまよっている人の姿が描かれている。

 基本的に動きのない物静かな物語であるが、そこに登場する人たちの心は、常に自分の居場所を求めていると言ってもいい。それゆえに、それまで自分の居場所だと信じていたものが揺さぶられた彼女たちは、まるで自分が見知らぬ場所に取り残されたかのような寂しさや孤独を、一様にいだくことになる。

 私たち人間には言葉があり、お互いにコミュニケーションをとりながら同じ世界を生きていくことができるはずである、という幻想――どれだけ言葉を尽くしても、根本的な部分で相手のことを理解することはできず、また自身の主観から逃れて完全な客観性をもつこともできないのだとするなら、私たちはけっきょくのところ自身の主観の世界を受け入れて生きていくしかなくなってしまう。そんな孤独を見据えたうえで、なお私たちにできることがあるとすれば何なのか、その答えの一端が、本書のなかにはたしかにある。(2005.06.18)

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