【中央公論新社】
『地下鉄のザジ』

レーモン・クノー著/生田耕作訳 



 レーモン・クノーというと、同じ出来事を手を変え品を変えて表現するという『文体練習』を読んでもわかるように、このうえなく言葉遊びが得意な作家というイメージがあるが、今回紹介する本書『地下鉄のザジ』もまた、物事を言葉で表現するというよりは、言葉によって生まれてくる奇妙奇天烈な世界を描いていこうとする作品だと言うことができる。そして、その言葉の発信源となっているのは、田舎からパリ見物にやってきたザジという女の子であり、物語を構成するのは、ことあるごとに口をついて飛び出す「けつ喰らえ」という魔法の言葉である。

「ナポレオンけつ喰らえ」ザジは剣もほろろに。「ぜんぜん興味ないわよ、あんな水ぶくれ、おまんこみたいな帽子をかぶってさ」

 天下のナポレオンも、ザジの言葉の前には威厳も何もあったものではないわけだが、その言葉のなかにふくまれる、常に膨れ上がっていく凶暴性のもとは、ひとえに「地下鉄に乗れない」という一点から生まれるものである。それもそのはず、ザジは母親とともにパリにやってきたのだが、母親は新しい情夫にぞっこんで、彼とよろしくやることしか考えておらず、いわば「邪魔者」のザジは、伯父であるガブリエルに預けられる格好となっているからだ。ザジにとって、パリに来ることの意義は、地下鉄に乗るという一点にこそあった。だが、パリの地下鉄はちょうどストライキ中であり、ザジの夢は物語のはじめからあえなく潰えた形となってしまう。

 つまり、『地下鉄のザジ』とタイトルにあるにもかかわらず、ザジと地下鉄との接点はいつまで経っても見出すことができず、彼女はその周りをぐるぐる、うろうろと徘徊するしかない、という状況が本書のメインとなっているのだ。たとえて言うなら、ルイス・キャロルの『魔法の国のアリス』において、アリスが最初に飛び込むべき穴がいつまで経っても見つからないようなものである。そして、彼女にとってのパリという街は、ガブリエルがことあるごとに「ああ、パリ」と感嘆し、その美しさを称えるそれとは正反対のものでもある。

 もっともそのガブリエルにしても、表向きは夜警をやってはいるか、じつはホモ・バーでストリップをやっているという人物であり、そんな自分の職業を「芸術家」だとうそぶくあたり、その美意識がどの程度のものなのかはおのずと知れてくるところであるが、他にも彼の友人でタクシー狂のシャルルや、何かと口うるさいテュランドーと彼の飼っているオウムの「緑」、警察か痴漢か正体不明のトルースカイヨンや、男に目がないムアック未亡人などなど、ザジをとりまく大人たちはいずれもひとクセもふたクセもある人たちばかり。たまらずパリの街に飛び出したザジは、そんな大人たちを手玉にとりながら、いつしかパリの外国人観光客や警察をも巻き込んだ、おおがかりなドタバタ喜劇を繰り広げていくことになる。

 勝手にガブリエルの家を抜け出し、追いかけてきたテュランドーを見知らぬ変質者あつかいしたり、ガブリエルにしつこく「ホモでオカマなの?」と問いただしたりと、ザジの言動は相当に辛辣なものだが、そうした彼女をふくむ物語のリアリティーやその筋の正当性といったものは、およそ本書を評するにあたっては無意味なものだ。重要なのは、ザジの辛辣な言動が徐々に周囲の世界に浸透し、騒ぎがどんどん大きく、非現実的な領域へと押し上げられていくところであり、また登場人物たちの会話が織り成す一種のリズムである。何より、ザジのこにくたらしい言動に振り回される大人たち、という構図は、大人の社会を飾る権威への皮肉にもなっており、胸のすくようなものがある。

 地下鉄もバスもストライキで動かず、道路は車で溢れかえっているパリという空間は、もはやそれ自体が普通とは言えない。本来あるべき機能を失い、かぎりなく停滞しつづけるなか、ザジの野蛮な物言いがさらに秩序をかき乱し、「喋れ、喋れ」とオウムがさらに茶々を入れる。このあたり、はたして原書ではどんな感じなのかが非常に気になるところであるが、そもそも地下鉄というのは交通手段のひとつであって、地下鉄そのものが目的と化しているザジの思いは、当初からどこか倒錯したところがあると言える。だが、いずれにしろザジの目的は大人の諸事情によって果たされず、その鬱憤は「けつ喰らえ」の言葉とともにパリじゅうをひっかき回すこととなる。

 およそ人間ドラマとか、いかにも物語的なストーリーとかいったものの権威をはなから無視したうえで、それでもなおひとつの作品としての面白さを表現しようと試みた本書は、相当にアクロバティックなところがあり、また本書の書かれた当時のフランス文学の情勢というものも考慮すべきところだが、まさにザジのごとく無軌道な本書の逸脱ぶりに、どうか目を回さないように気をつけてもらいたい。(2009.05.02)

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