【偕成社】
『夢の守り人』

上橋菜穂子著 



 もし自分があのとき、別の道を選んでいたとしたら、今ごろ自分はどんな人生を歩んでいるのだろう、とふと思うことがある。もちろん、考えても仕方のないことだ。だが、今の人生に倦み、自分の心が現実と向かい合うにはあまりに疲れ、弱ってしまっているとき、人はふと現実から、けっしてありえない「もし」の世界を夢想する。

 現実を生きるのはけっして楽なことではないし、また自分の人生が何もかも思いどおりになる、ということもありえない。そして人の心というのは、必ずしも過酷な現実に耐えられるほど強くありつづけられるわけでもないのだ。常に移ろい、迷い、ちょっとしたことにも容易に傷ついてしまう人の心――だが、ときには生きたいと願う肉体の欲求をも凌駕してしまう人間の想いの力について考えるとき、私たちはあらためて、「なぜ生きるのか」と自身に問わずにはいられなくなる。

 本書『夢の守り人』は『精霊の守り人』『闇の守り人』につづく著者の「守り人」シリーズの第3弾であるが、そこは人間が住まう世界とは別に、精霊たちの生きるもうひとつの世界が現実として存在し、お互いの世界に影響をおよぼしあっているという、独自の世界観によって成り立っているファンタジーでもある。そして、今回登場するのは、異世界で花を咲かせ、実を結ぶという<花>である。

 齢三十にして神速の短槍使いである女用心棒のバルサは、道中でユグノという歌い手を助けることになる。彼はリー・トゥ・ルエン<木霊の想い人>――木霊に愛され、それゆえに非凡な歌の力を手に入れた、まるで子どものような心を持つ不思議な青年だった。いっぽう、呪術師見習いでバルサの唯一の幼馴染でもあるタンダは、姪のカヤが何日も眠ったまま目を醒まさない、という奇妙な現象に困惑していた。彼の師であるトロガイによると、異世界の<花>が実を結ぶために、人々の魂を甘い夢で誘いはじめたのではないか、ということだった。今から五十年以上も昔、トロガイもまたその<花>に魂を誘われ、<花>の世界でじつに不思議な体験をしていたのだ……。

 この世の植物が受粉を果たし、新たな種子をはぐくむために、美しい花を咲かせ、甘い蜜をたくわえて虫や鳥たちを誘うように、抗いがたい甘美な夢で人々の魂を誘い、その魂がみる夢を養分として実をつける異世界の<花>――精霊や異世界の存在がたんなるファンタジーのガジェットとしてではなく、人間を含めたすべての生命と対等な存在として、生きるうえで深い意味のあるものとして扱うことで、圧倒的なリアリティを出すことに成功しているのが著者の「守り人」シリーズの大きな特長であるが、今回の<花>の存在は、人間がみずにはいられない夢を利用する、という点では、まさに著者の世界観そのものを象徴するものだと言っていいだろう。

 よく、生き物にとってなにより強い思いは、生きたい、という思いだというね。……だけど、なぜだろう。人は、ときに、たまらなく死にさそわれてしまうこともある。

 なくしてしまったもの、二度と取り戻すことのできないものを抱え、夢をみずにはいられない、人の心の弱さを利用する異世界の<花>――しかし、人の夢を滋養とするがゆえに、あまりに強い人の想いに影響されずにはいられない。<花>がその本来の能力を超えて、捕らえた人の魂を死ぬまで離そうとしない、食虫植物のようなものに変容していることに気づかないまま、カヤの魂を取り戻すために<花>の世界へと魂をとばしたタンダは、逆に変質した<花>の罠に落ち、人鬼となって歌い手ユグノを襲うようになってしまう。はたして、<花>とユグノとのあいだには、どのような関係があるというのか。<花>の本来あった姿をねじまげてしまったのは誰なのか。そして、バルサとトロガイは、人鬼と化したタンダを救うことができるのか?

『精霊の守り人』のなかで説明のあった「ナユグ」とはまた異なった世界で展開される幻想的なイメージや、あのトロガイがなぜ呪術師になったのか、という過去の話、また、かつてバルサに助けられ、新ヨゴ皇国の正式な皇太子となった、チャグムのその後の姿など、シリーズを通じて読んでいる人にとっても興味深い要素を多く取り入れた本書であるが、<花>が人々の魂に見せてくれる夢のイメージは、現実に絶望してしまった人たちにとってはこのうえなく魅力的なテーマだろう。だが、本書は安易に「生きることの大切さ」といったメッセージを物語のなかに乗せているわけではない。ただ、バルサにはバルサの、タンダにはタンダの、トロガイにはトロガイの世界があり、それぞれがどのように周囲の人々の世界と関わりをもっているのか、ということを描いてみせるだけである。だが、たしかな自分の世界を持つ人の姿は、<花>の見せる夢以上に美しい。

 バルサはタンダのために命をかける決意をし、タンダは唯一残された魂で<花>の世界をさまよいながら、それでも夢みる人たちの魂を助けようとし、トロガイもまた、愛弟子のため、そして自身の過去と決着をつけるために尽力し、チャグムも再び自身の運命に向き合うための勇気を奮い起こす。人と人とが関係する、というのは、お互いがもつ世界が関係しあい、衝突しあうことでもある。いみじくも星読博士のシュガが気づいた、いくつもの大小の世界が、まるで星のめぐりのように近づいたり離れたりしていく壮大な図――それはそのまま、多くの人たちと出会っては別れていく私たちひとりひとりの人生そのものの図につながるのではないか、と思わずにはいられないのだ。

 もし、あのとき別の選択をしていたら――それはまさに「夢」でしかなく、目覚めれば唯一の現実があるばかりだ。もし、本書に出てくるような<花>の世界があるとしたら、あなたははたして現実から目をそむけ、夢の世界を生きるのだろうか。それとも、それでもなお現実に目を向け、自分が心に思い描く理想を目指して生きることを選ぶだろうか。(2002.09.04)

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