【新潮社】
『柳橋物語・むかしも今も』

山本周五郎著 



 とくに何かを語れるほど自身の人生を長く歩んできたわけでもないのだが、そんな私でも、人生がなかなか自分の思いどおりにならないものだ、ということだけは、なんとなくわかってきたように思う。
 もちろん、すべてがそうだと言うつもりはない。人はときに、本人も思いがけないような強い力を発揮して、さまざまな困難を乗り越えてきた生き物であるし、努力を怠らなければそれなりの成果が必ずついてまわることも知っている。だが、それでも自分の行為が、自分の思っていたのとは正反対の結果を招いてしまったり、あるいは小さい頃の夢から大きくはずれてしまった場所にいる今の自分を振り返ったりしたときに、はたして、自分の思いどおりの人生を実現させるだけの強さを持ち合わせている人間が、どれだけいるのだろうか、と思わずにはいられないのも事実である。

 この世に完璧な人間などいるはずがない以上、誰もが多かれ少なかれ自身の人生に不満を抱き、自分の力ではどうにもならない運命を呪う――本書『柳橋物語・むかしも今も』は、江戸下町を舞台にした庶民たちの物語2篇を収めた作品であるが、どちらにも共通して言えることがあるとすれば、けっして自分の思いどおりにはならない人生をどのように受け入れていくか、人の世の儚さを想いつつ、ひとりのちっぽけな人間として、どういう姿勢で生きるべきなのか、を描いた作品だということである。

『柳橋物語』は、上方へ出て一人前の棟梁となることを誓った庄吉の言葉を信じ、彼が帰ってきて自分を迎えに来るまで、身の貞操を守ると決意したおせんを翻弄する運命を描いた作品であるが、この作品ほど読者に「もし彼女が別の選択をしていたら……」と思わせずにはいられないものもないだろう。というのも、おせんに庄吉への情愛の念を起こさせたのは、夕暮れ時の柳河岸、一本の柳の樹の下における恋の告白という「シチュエーション」であり、そのときの「庄吉を信じて待つ」というおせんの決意が、その後の彼女の過酷な運命を決定づけてしまった感があるからである。

 人はときに、自分にとって本当に大切なものが、じつはすぐそばにありながら、そのことになかなか気づかない愚かさを持っているものであるが、『柳橋物語』は、まさにその典型と言うべき物語だ。庄吉との約束ゆえに、一度嫁になるのをことわったにもかかわらず、以前と変わらぬ親しさで接しつづけ、大火事のときには自分の身も顧みず、体の不自由なおせんの祖父を助け出した幸太の、おせんへの想いに一度も答えることができず、結果として幸太の死を招いてしまうことになり、またその大火事で孤児を拾ってしまったがゆえに、大阪から戻ってきた庄吉に身の貞操を疑われてしまう。その後の世間からの冷ややかな視線に、それでも「いつかは誤解の解ける日が来る」ことを信じ、ひたすらに耐え忍んで生きてきたおせんの耳に、庄吉がおせんとの約束を破り、妻を娶ったという話を聞かされる――この作品の特記すべきところは、おせんにしろ庄吉にしろ、幸太にしろ、誰ひとりとして悪い人間がいないにもかかわらず、まるで運命としか言いようのない状況のめぐりあわせによって誤解が誤解を生み、それが登場人物たちをとりかえしのつかない結果へと導いていってしまう、というところである。

『むかしも今も』は、指物師のもとで修行している、愚直で不器用な直吉が、その引っ込み思案な性格ゆえに、さまざまな苦労をしょいこんでしまう、という話である。ふたりの男の職人が、ひとりの女に想いを寄せてしまう、という展開は『柳橋物語』と同じであるが、ただ、そのまきの亭主となる清次がずる賢い性格で、人から言葉巧みに金を借りては博打に手を出してしまうというごくつぶしである分、師が残した店のため、そして何より幼い頃からその成長を見守ってきたまきの幸せのために、一途に身を尽くそうとする直吉の純粋な実直さが際立つしくみとなっている。

『柳橋物語』のおせんにしろ、『むかしも今も』の直吉にしろ、まるで災難のようにふりかかってくる不幸な出来事や悲しい誤解に打ちのめされながらも、なおひとつの約束を守り通していく姿は、いっぽうでは愚かしくもあるが、いっぽうでは美しくもあるものだ。ときに大火事や地震、不作による物価の高騰など、自然災害に翻弄されることの多かった江戸という場の雰囲気をうまくとらえて、人の世の無常さ、儚さをいっそう強調する手法は見事というほかにないが、同じようなテーマを取り扱ったふたつの作品が、いっぽうでハッピーエンドであり、もういっぽうでけっしてハッピーとは言えない終わり方をしているのは、ある意味で象徴的だと言える。

 本書の2作品を並べたときに見えてくるもの――それは、ほんのちょっとしたことでその人の幸不幸が決定されてしまう、というこの世のままならなさであり、それがわかっていてなお、誰かを愛さずにはいられない人の心の弱さ、哀しさでもある。

 男が悪いのでもなく女に罪があるわけでもない。好く好かないというごく単純な、しかも自分ではどうしようもない愛情の哀しさなのだ。それは人を生かしもするが、あるばあいはこのように殺しもするのである。
 ――泣くのも笑うのもこのためだ、そして誰も彼もそれなしには生きられないし、またそれから逃げることもできない、人間というのは哀しいもんだ。

(『むかしも今も』)

 世の中を生きていくのはけっして甘いものではなく、ともすると、人間というのは苦労するためだけに生まれてきたのではないか、と邪推してしまうことも少なくない。だが、そうしたままならぬ人生にけっして絶望することなく、ときにずる賢く、ときに完全に開き直り、そしてときに愚直なまでにまっすぐ生きていく江戸下町の人々の姿は、たんに古臭い、という言葉で終わらせてしまうにはあまりにも人間的な雰囲気を持ち合わせている。人間はたしかに弱い生き物ではあるが、本書のなかに生きる人たちの芯の強さを考えるとき、人として生きるというのは、思ったほど絶望すべきことではないのかもしれない、という気になってくるのだから、不思議なものである。(2002.05.26)

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