【講談社】
『宿屋めぐり』

町田康著 



 以前読んだ柳広司の『ジョーカー・ゲーム』のなかに、「ロビンソン」というタイトルの短編がある。そのなかで、これから外国に潜入しようとしているある日本人スパイが、ロビンソン・クルーソーの逸話をスパイとしての自分自身に投影する、というシーンが印象に残っている。それは、南海の孤島にたったひとり漂着したロビンソン・クルーソーが、日々の生活のなかであくまで英国人としての生活スタイルを維持していこうとする点を指摘するもので、そうした言動は故国のイギリスであればともかく、無人島でのサバイバルでは無駄なものでしかないのだが、それは何より彼が「英国人」であるというアイデンティティを保って生きつづけるために、必要不可欠な手続きであると彼は考えるのだ。そして、それはこれからスパイとして未知の土地へ潜入する自分にもあてはまることである、と。

 ロビンソン・クルーソーにとっての無人島という場所は、彼が本来属するべき場所とは異なった世界であり、そういう意味では一種の非日常であり、虚構であるとも言える。もちろん、虚構だから一晩眠って目が覚めたらそこはもう無人島じゃない、なんて都合の良いことは起こらず、彼は助けの船が通りかかるまでその無人島で生活をしていかなければならないのだが、ここで問題となるのは、彼にとっては異世界も同様である無人島において、英国人としての内面を保ち続けていくことが、彼のアイデンティティを保つ支えのひとつとなっていたという点である。

 神や宗教をはじめとする絶対的な存在とされるものが次々と否定され、自身の主観において世界をとらえなおしていくしかない相対主義の時代において、自分がまぎれもない自分自身である、という認識は、いったい何をもって揺るがない支柱となり、自分自身を支えることになるのだろうか。私が本書『宿屋めぐり』を読んだときに、ふと脳裏にロビンソン・クルーソーの物語が浮かんだのは、本書に登場する鋤名彦名の陥った状況がそれと似かよったところがあると感じたからに他ならない。もっとも本書の場合、主の命で燦州大権現に刀を奉納する旅の途中、なぜか法師たちに追われる身となり、湖からあがってきた白いくにゅくにゅの虫に飲み込まれたところ、なぜかそこに別の世界が広がっていたという、かなりわけのわからない状況であるが、こうしたおよそリアリティに乏しい世界造詣は、言ってみれば著者の十八番のようなものであって、ことさら驚くべき要素ではない。むしろ重要なのは、自身が飲み込まれたもうひとつの世界のなかで、語り手はこの世界が嘘と欺瞞に満ちた偽物の世界である、という認識を強くしていく点にこそある。

 おそらくいいのだろう。嘘を言って人を騙さないとこの世の中を生きていかれないのだ。
 そして騙される方もまた、嘘を嘘と指摘して周囲から遊離するのが嫌で、それを嘘と知りながら気がつかぬ振りをして拍手喝采しているのだ。

 変な虫に飲み込まれたもうひとつの世界で、いろいろとやっかいなことに巻き込まれたあげく、奉納すべき刀を失うばかりか極悪人の大量殺人鬼として全国に指名手配され、とにかく正体を隠して逃げるしかないという語り手の状況は、たとえば私たちが交通事故に巻き込まれたり、通り魔に刺されたり、あるいは天災の被害を受けたりする以上に理不尽なものである。世界そのものすらあやふやで、どこか整合性を欠けるなか、語り手は常に、鋤名彦名という本来の自分自身がどういうものなのか、そのアイデンティティを揺るがされる立場に置かれている。じっさい、語り手の性格はその場その場の雰囲気でずいぶんと変化していく。相手が自分を恐れていると知ると、まるで自分が王であるかのように傲慢不遜な振るまいをするし、逆に相手が強い立場にいると、とたんに卑屈な態度をとってしまう。その場その場で嘘をつくこともあれば、大金を手にしてどんちゃん騒ぎだってする。それは人としてなんとも情けないというか、えらく調子のいい性格ではあるが、彼が確固たる自分自身としての芯をもつことができず、それゆえに状況にただ流されているだけだと考えると、納得のいくものである。

 本当は、世間に流布されているような悪逆非道なことなどやっていない。それはポーラや酒坂石ヌ、別鱈珍太といった卑劣漢たちが言葉巧みに広めた嘘であって、本当の自分とは違う。だが、本当の自分――鋤名彦名こそが本当の自分であると名乗り出てしまえば、自分はたちまち捕縛され、処刑されてしまう。結果、彼は名前を変え、顔を変え、別人を装って生きていくことになり、真実の自分からますます遠ざかってしまう。

 本書のなかで彼が置かれた状況は、そういったものである。だが、では本当の自分とは何かということになると、そこにたしかなことなど何ひとつないのだ。そもそも自分がいる世界が嘘であるとすれば、そこに真実を求めることに何の意味があるというのか。そういう意味で、語り手はどんなにハチャメチャなことをやっても構わないはずである。だが、語り手はそうはしない。なぜか手から火炎や水流を噴き出すという奇跡ができるようになったときでさえ、彼が考えるのは、彼が「主」と呼ぶ支配者のことである。

 鋤名彦名に刀の奉納を命じた「主」なる人物は、常に彼の思考の優先事項として根を張っており、彼にとっては神にも等しい畏怖すべき存在だということが、本書を読み進めていくとわかってくる。確固たる自分自身をもてない彼は、その拠り所を「主」に求めるしかない、弱い人間なのだ。だが、それは言ってみれば、自身の言動の責任を他人に丸投げしてしまうことでもある。だからこそ、奇跡を起こせるようになった鋤名彦名は、そこに「主」のメッセージを読み取ることになる。たとえば、奇跡を起こせる力は、主がこの世界の嘘を正すために与えてくれたものだ、というふうに。そして、こうした「主」中心のご都合主義的思考は、話が進むにつれてひどいものとなり、ますます破綻したものとなっていく。

 以前紹介したハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』の書評でも書いた「過剰な忖度」と同じようなことが、語り手の思考のなかでも起こっているということになる。それは、彼が卑劣漢と断ずる者たちがこしらえる嘘を真実として押し通すこの世界のありさまと、やっていることは同じである。当人の主観のなかでのみ成立する理詰めの思考――時代劇のようでありながら、言葉や思考の端々に現代チックな要素を含む本書の世界が、およそリアリティーに欠けるものでありながら、そのなかに混じっている一抹の真理が読者の心の空隙をつくのは、そうした考えが私たちの生きる世界でもまかり通ってしまうことを、知っているからに他ならない。

 ありとあらゆるものが嘘くさい世界のなかで、鋤名彦名はただひとつ「主」の命で刀を奉納する、という役割にのみ固執していく。だが、その肝心の「主」はこの世界にはいない。いないから自分で判断するしかないのだが、その判断を、あたかも「主」の意向であるかのように見立ててしまうことで、彼は決定的に間違った道を歩いていくことになる。『パンク侍、斬られて候』にしろ、『告白』にしろ、いっけんふざけた世界を描いていながらも、じつに重いテーマが著者の作品のなかには存在する。はたして、私たちの生きるこの世界は、何が本当で何が嘘であるのか、はっきりした境界線があると断ずることができるのか。あるいは、本書の世界と同じように、その境目など状況によってどうにでも変わってしまうようなものではないのか。そして、そんななかで生きる私たちにとって、まぎれもない自分とは何なのか――そうしたことを考えずにはいられないものが、本書のなかにはたしかにある。(2009.03.15)

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