【福武書店(現ベネッセ)】
『夏の黄昏』

カーソン・マッカラーズ著/加島祥造訳 



 私がまだ子どもだった頃、世界は自分を中心にして回っているのだと信じて疑わなかった。なまじ、大抵のことは人より器用にこなすことができただけに、なおのこと傲慢な性格が育っていたのかもしれない。
 もちろん、今はそうした考えが、いかにも子どもっぽい妄想にすぎないものだということを知っているが、当時をふりかえってみたときに、おそらく明確に意識することさえないままに、きわめて自己中心的な世界の存在を信じ、それゆえにちょっとうまくいかないことがあったりすると、すぐにかんしゃくを起こしたりしていたのを覚えている。

 人はいったい、いつから自分が子どもではなく、大人なのだと自覚するものなのだろうか。以前、雨森零の『首飾り』を読んだとき、「今」という時間しか認識しない子どもたちにとって、時間は永遠に等しいものだと述べたことがあるが、それは当然のことながら、自分が主人公であり、ヒロインである自分中心の世界においてのことである。現実世界の時間は当人の意志とは無関係に流れ去り、自分の身体もまた、ずっと以前のままではいられない。時間が永遠ではなく、来るべき死へのカウントダウンである、という事実――子どもから大人になる、というのは、身体的な成長のことばかりでなく、世の中がけっして自分を中心に回っているわけではないこと、つまり、世界は自分という存在を欠いても勝手に成り立っていくものだと認めることからはじまるのではないだろうか。そして人は徐々に、「今」という時間しか存在しない自分中心の世界から、確実に時間が流れていくリアルな現実世界のなかに、自身の身の置き場所を探し始めることになる。

 本書『夏の黄昏』のなかに書かれている話自体は、いたってシンプルなものだ。12歳になった少女フランキーが、兄の結婚式に参加するためにウィンターヒルへ行って帰ってくる。たったこれだけの物語であるにもかかわらず、そこにはいつまでも子どものままではいられないひとりの少女の、揺れ動く心の様子が見事に描かれている。

 私にとっての12歳といえば、ちょうど小学生と中学生の境目にあたる年齢であった。その頃もっともショックだったのは、小学生には開放されていたある施設に、中学生になったとたん入ることができなくなった、ということだった。もちろん、今ではその意義は理解できる。だが当時の私は、自分は何も変わったわけではないのに、もはや小学生のように遊ぶことはできないのだ、ということに対して理不尽な思いを抱いたものだ。

 12歳になったフランキーにとって、急に伸び出した身長が、おそらく早熟すぎる変化であったことは、本書を読んでいけば容易に想像することができるものである。そしてその身体的成熟に、心のほうがついていっていない、ということも。子どもでもなく、かといって大人というわけでもない、不安定で微妙な時期――体は大きくなっていくのに、しかるべきクラブハウスに招かれない自分、父親と同じベッドで寝るという、彼女にとってのあたりまえの日常が拒否されるような年齢になったにもかかわらず、女の子らしいふるまいをすることのできない自分への戸惑いと、しかしそのことをうまく形容できないがゆえの、漠然とした不安と焦燥は、フランキーを最終的には自分の家の台所へと閉じ込めることとなる。料理人のベレニスと、従弟のジョンがいて、それぞれの神の世界についてとりとめのない話をしたりカードをしたりする、壁一面に落書きのされた台所は、どこにも行き場所がないと思いこんでいるフランキーにとって、おそらく自分がわがままな子どものままでいられる、とりあえずの避難所だったと言えるだろう。

 だが、そんなフランキーのところに、兄の結婚という大イベントが舞い込んでくる。

 そして今、全てが変わった。兄さんと花嫁がいるのだ。――(中略)――彼らこそあたしの「あたしたち」なのだ。だからこそ、彼らが二人だけでウィンターヒルに行ってしまい、フランキーが一人残されていることが、こんなにも奇妙でつらいのだ。

 自分はけっしてひとりではないのだ、という願うような気持ちが生み出した、この突拍子もない妄想が、リアルな現実世界で通用するはずもないことは、常識を知っているかたなら誰でも想像できることだろう。じっさい、兄と花嫁のあとについて、この町を出ていく、というフランキーの妄想は、圧倒的な現実によって見事に裏切られることになるわけだが、同時に私たちは、誰にも打ち明けることのできない、説明したくても説明できないもやもやした気持ちを抱えたまま、自分がまるで世界そのものから切り離されてしまったように思いこんでいるフランキーの孤独もまた、感じ取ることができるのだ。なぜならそれは、大人であれば誰もが通過してきた、子どもから大人になるときに抱くもやもやとした気持ち、思春期に特有の不安定さであるからだ。

 私は男であって、女性が性に目覚める頃の心理については、もはや想像の域を越えないものであるが、本書のなかでフランキーという、いかにも中性的な略称が、話が進むにつれてF・ジャスミン、そしてフランシスへと変化していくのは、まさに少女時代の終わりを象徴しているのだろう。そして自分だけでなく、自分の周囲にあたりまえのようにいた人たちもまた、以前のままではいられない。自分はこれから、どんなふうに変わっていくのか、けっして自分の思いどおりにはならない現実世界と、どうやって折り合いをつけていけばいいのか――少女が大人への第一歩をふみだすときに感じるであろう、複雑な感情の移り変わりが、何かと象徴的な情景描写とともに描かれた作品、それが本書『夏の黄昏』なのだ。

 昼でもなく、夜でもない黄昏時は、子どもでもなく、大人でもない思春期の少年少女の心情そのものでもある。なんらかの大きなイベントを経て、少年少女が一人前の大人として成長する姿を描いた作品は数多く、またそうした展開が魅力的であることは間違いないことだが、たいていの人たちは、とくにこれといった事件に巻き込まれることもなく、また何か大きなことを成そうと思いながら、けっきょく何も成さないままに、いつのまにか大人という枠のなかに収まってしまうものだろう。そういう意味では、本書におけるフランキーの心情は、私たちが大人になるさいに経てきた心情にもっとも近いものだと言えよう。(2002.09.11)

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