【講談社】
『魔界転生』

山田風太郎著 



「夢の対決」という言葉がある。プロレスで言うならアントニオ猪木VSジャイアント馬場、相撲で言うなら貴乃花VS若乃花といった、ふだんならありえない組み合わせ、戦うことのない者どおしが対決することを指してそのように呼ぶが、これはなにも同種のスポーツや格闘技の中だけにとどまらず、たとえば上述の者どおしがコンビを組んで、プロレスVS相撲のタッグマッチを行なう、というような展開も、もし実現するのであれば立派な「夢の対決」である。そして、人間というのは、その「夢の対決」が実現し難いものであればあるほど、その過程が、その結果がどのようなものになるのか、夢想せずにはいられない困った生き物であるらしい。

 漫画雑誌としては後発である、集英社が刊行している週刊誌「少年ジャンプ」は、少し前まではゆでたまごの『キン肉マン』や車田正美の『聖闘士星矢』に代表される、いわゆる「対決もの」の路線を推し進めることによって子どもたちの人気を獲得していったが、その原形は山田風太郎の「忍法帖」シリーズにある、とも言われている。本書『魔界転生』は、そのシリーズの中でも最高傑作の呼び声高い作品であるが、その最大の要因は、やはり上述のごとき「夢の対決」を実現させた、という点にあるだろう。

 本書のタイトルにもなっている「魔界転生」とは、いちおう忍法という位置づけになってはいるが、その内容は女胎をもって死んだ人間を魔人としてこの世に再誕させるという妖異壮絶なもので、しかも甦ってくる面々が、島原の乱の首謀者天草四郎をはじめ、天下無双の大剣豪宮本武蔵や、槍術の達人宝蔵院胤舜、幕府の大目付で江戸柳生流剣術の使い手柳生但馬守など、どれも天下に名だたる歴史的ビックネームばかり。そんな恐るべき軍団を背後で操り、徳川御三家がひとり紀伊大納言頼宣をもそそのかして幕府転覆をもくろむ強大な敵に対して、はたして主人公たる隻眼の剣士柳生十兵衛はどのように立ち向かっていくのか――たとえ時代小説には興味のない者であっても、この豪華なメンバーの「夢の対決」にはきっと胸躍る興奮をおぼえるに違いない。

 時代小説・歴史小説といえば、過去の時代や歴史を取り扱うものである以上、あくまで歴史的事実やその時代背景を考慮に入れて物語を構成していく必要があるものだ。それがゆえに、時代小説はさまざまな制約を課せられたジャンルであるとも言える。立場的なものはもちろんのこと、活躍した時代まで異なる剣豪たちを集結させ、対決させる――この時間の壁を、著者は「魔界転生」という奇想天外な忍法をもちい、彼らを一度「人外」のものへと変化させることで実現させた。まさに宙返り的な発想だと言わねばなるまいが、だからといって、本書をもって荒唐無稽な物語だと判断するのは間違いである。なぜなら本書の物語は、その荒唐無稽な、しかしたったひとつの虚構をおぎなってあまりある圧倒的なリアリティーをもって描かれているからだ。

 本書における一番の読みどころが、柳生十兵衛と「魔界転生」によって復活した転生衆との直接対決であることは間違いない。それはある意味、現実にも、歴史的事実に即してもけっしてありえない剣豪どうしの戦いを、なんとしても実現させたいと望む著者のロマンチシズムのなせる技だとも言えるが、しかし著者は、互いが殺傷能力のある武器と、それを操る剣術でおこなわれる真剣勝負の場にまでそのロマンチシズムを持ち込むことはない。その道の達人と認める者どうしが剣を構えて対峙しているときの、息づまるような緊張感、またその剣術の凄まじさを物語るエピソード――たとえば人ひとりを一瞬にしてバラバラに切り捨て、岩に穴をうがち、鉄をも貫通させるその剣技の描写の妙は、圧倒的な臨場感を読者にもたらす見事なものであるが、一度どちらかが仕掛ければ、その一瞬で勝敗が決する、というものがほとんどである。

 それは場合によると、驚くほどあっけない決着だったりする場合があるのだが、そこには本当の真剣勝負というものが、その当人たちの実力もさることながら、ちょっとした心理的駆け引きや、刻一刻と変化する天候、地形の状況、突発的なハプニングに対する判断、さらには純粋に運不運といったものをひっくるめた総合的なものにどれだけ大きく左右されるものであるか、ということを、著者はきわめて冷徹な視線で描くことに徹しているのだ。

 死者を甦らせる「魔界転生」――その恐るべき秘術は、しかし甦る人間に、生前において世に対する強い不平不満があることが前提条件となっている。そういう意味において、転生衆の面々にあらためて目を向けたとき、その誰もが生前においてひたすら剣の道を極めんと腕を磨き、そのためには人間としてとうぜんあるはずの欲求をも押し殺し、あるいはそれすら利用して、不器用なまでにかたくなに生きてきた者たちばかりであることは、なかなかに興味深いものがある。そして、剣の達人として世に知られていたはずの彼らが、その生前に対して不満をいだいていた、という事実も。

 これに対して柳生十兵衛の人柄は、まったくの対極を成すものである。天下の将軍を指南のさいに、こっぴどく打ち据えて父但馬守から柳生の庄へ放逐されたというエピソードをもつ十兵衛は、どこか飄々としてつかみどころがなく、剣の道も、達人との勝負も、また身分の差や因習といったものにすらこだわらない、自由闊達でありながらどこか孤独な人物として本書では描かれている。もちろん、無類の剣客であることに間違いはないが、それ以上に重要なのは、転生衆との戦いにおいて、自身が重要だと判断した目的のためには、けっして一騎討ちにこだわらない――極端に言えばそのためなら仲間の力も喜んで借りるし、自ら決めたルールを無効にするために相手を罠にかけることも厭わない、ある意味で破天荒な人物だという点だろう。そして十兵衛側はもちろんのこと、転生衆側をも巻き込んで刻々と意想外な展開を示す物語のなかで、何かひとつのものにこだわるかこだわらないか、というのは、本書においてはじつに重要な位置を占めているように思える。

 私はスポーツや格闘技についてけっして詳しいわけではないが、もし最初に言ったようなプロレスVS相撲の「夢の対決」が実現したとき、その勝敗を決めるのは、おそらく「どちらの格闘スタイルがより優れているか」ということではなく、双方の選手が、プロレスならプロレスの、相撲なら相撲の、従来の戦い方からどれだけ自由になれるか、という一点にかかっているのではないか、と思うのだ。はたして著者が実現させた、時代小説におけるこの「夢の対決」が、どのような結末をたどることになるのか、ぜひともたしかめてもらいたい。(2002.12.26)

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