【光文社】
『田村はまだか』

朝倉かすみ著 



 同窓会である。三次会である。二次会までにすっかり出来上がった長っ尻の有志五人が、とあるスナック・バーで酒を飲みながら、ひたすら同期のひとりが来るのを待っている。今回紹介する本書『田村はまだか』は、ようするにそんなシチュエーションを長く引っぱっていく作品だと言っていい。

 表題作を含む六つの短編を収めた本書であるが、同窓会の三次会というシチュエーションは変わらないし、登場人物五人(プラス、バーのマスターである花輪春彦)も、三次会の舞台となっている札幌のススキノにあるバー「チャオ」も変わらない。そしていずれの短編においても、彼らは一様に、二十八年ぶりになる田村という男を待っている。そういう意味では、短編集と言いながら、じつのところひとつながりの物語という見方もできる。そして私たち読者は、なにより田村久志という大きな謎について、思いをめぐらせずにはいられない――同期五人の思い出のなかでのみ語られ、今は花輪春彦の想像力をもっともかきたてる、いまだ顔を出していない田村という男について。

 待っているのは誰だ。田村か、きみか、ぼくか。――(中略)――ぼくはスピードを上げる。だから、おまえもスピードをだせよ、田村。おまえがこなけりゃ始まらないんだ。

(『きみとぼくとかれの』より)

 同窓会の三次会といえば、かなりの長丁場だ。じっさい、普通に家庭をもっている同窓生の大半は、終電を気にして帰ってしまい、残っているのは五人だけという状況である。逆に言えば、彼らは気にしなければならない家庭から程遠い暮らしをしている、ということでもある。たとえば、とある男子校の保険医をしている加地千夏と、生命保険会社で営業所長をしている坪田隼雄は四十歳にしていまだ独身であるし、伊吹祥子については最近、自身の不倫が夫にバレて離婚してしまっている。四十歳という年齢は、人生の折り返し地点であると同時に、新しいことを始めたり、人生をやり直したりするには少しばかり年齢を重ねすぎているという、きわめて微妙な位置だ。そんな彼らが、三次会になってなおやって来ない田村を、それでも待ち続けているというシチュエーションは、それだけ彼らにとって田村が特別な存在だということを、何より雄弁に物語っていることになる。だが、田村の何が彼等にとっての「特別」なのか――それこそが、本書を読むうえでのキモとなる部分である。

 本書の最初に掲載されている表題作『田村はまだか』において、小学六年の田村は、クラスメイトたちの前でかなり劇的な告白をしている。それは、田村を語るうえで欠かせない大きなエピソードとして、同窓生五人が共有できる思い出のひとつだ。しょっちゅう男をとっかえひっかえしていた母親とともに、けっして健全とは言いがたい環境で育った田村は、しかし身を持ち崩すことなく、その告白相手の中村理香と結婚、弟子入りした豆腐屋を継いで取引規模を拡大し、子どももふたりいるという、まさに絵に描いたような円満で堅実な人生を歩んでいる。

 じつのところ、田村の過去に焦点が当てられるのは表題作のみであり、それ以降の短編では、彼を待つ同窓生たちそれぞれの過去が主体となって語られていく。そして上述したように、彼らのそれまでの人生は、必ずしも田村のように円満な家庭を築いているとは言いがたいところがある。そんなふうに、田村とそれ以外の同窓生という形で、彼らの人生を比較対照することは可能であるが、それが本書の本質というわけではないし、そもそも人生というものは、他の誰かの人生を比較して、その良し悪しを判断するようなものでもない。重要なのは、同窓生五人にとって過去の思い出――とくに田村にかんする思い出が、それぞれにとってどのような意味合いを帯びているのか、という点にこそある。

 人生というのは、いつも順風満帆というわけにはいかないし、すべてが自分の思いどおりになるわけでもない。むしろ、思うようにならないことのほうが多いのが人生だったりするのだが、その人生の折り返し地点にいる彼らが、いつまでも来る気配のない――あるいは、もう来ないかもしれない田村を待つという行為に、はたしてどれほどの意味があるのか、ということを考えたときに、彼らにとって「待つ」という行為そのものが、ある種の意地となっている部分があることに気づく。普通に考えて、三次会になってもいまだに来られないような状況になったときに、待つほうも待たせるほうも「あきらめる」という選択肢を考えるものだ。今さら同窓会に行っても、ほとんど意味がない――だが、その「意味のない」行為というのは、誰が、どんなふうにして決めるのか?

 意味があるかないかという判断は、突きつめていくと私たちがこの世に生きること自身の無意味さとつながってしまう。どうせ人はいつか死ぬのに、なぜ今を生きていかなければならないのか――本書に登場する人たちは、せめてこの同窓会の場においては、それが無意味な行為であると信じたくはないと思っているし、そうであることを願ってもいる。田村は、きっとここに来る。その思いは、それぞれのかかえる、けっして思いどおりにはならない人生を意味のあるものとするために、けっして欠かすことのできないものでもあるのだ。だからこそ、表題作で小学六年の田村が、「なんにもない」と言って泣く中村理恵に放った言葉は、同窓生たちにとって大きな意味をもつことになる。もちろん、離婚と退社とバーの立ち上げという出来事を経てきた花輪春彦にとっても同様である。

「どうせ死ぬから、今、生きてるんじゃないのか」

(『田村はまだか』より)

 ただ誰かを待ち続けるという、究極的に動きのない話をひとつの物語として成立させているというのは、大きな驚きであると同時に、小説という表現形式の可能性をあらためて思い知らさせてくれる。はたして、田村は本当に同窓会にやってくるのか、そして何より、彼らが「田村はまだか」と言うときに、そこにどのような思いが込められているのか、ぜひたしかめてもらいたい。(2010.08.01)

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