【講談社】
『ぼくのメジャースプーン』

辻村深月著 



 一度壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。一度口から出た言葉は、もう取り消すことはできない。一度死んでしまったものは、けっして生き返ったりしない。だからこそ、自分にとってこのうえなく大切なものは、何が何でも守りたいと人は強く願う。もし、その感情を「愛」と呼ぶのであれば、その大切なものが何者かの手によって壊されてしまったときに、その犯人に対していだく憎しみの感情もまた、「愛」の裏返しということになるのだが、その暗い感情は、けっして当人が望むものを返してはくれない、という意味で、このうえなく虚しいものでもある。

 私とてあさましい人間のひとりである以上、嫌なことをされれば腹が立つし、誰かを憎らしいと思ったことも一度や二度ではない。だが、そうした負の感情というのは、たいていの場合長続きはしない。なぜなら、激しい感情というのは維持するのに大きなエネルギーを消費するものであるし、それが虚しいことだと頭のどこかで割り切ってもいるからである。誰かに復讐する、という行為は、その内容を真剣に考え、実行するためにいろいろなものをあきらめ、また自分も同じような加害者となることの代償を覚悟しなければならないことを私たちは知っているし、それは多くの場合、自分の今後の可能性と比較したときに釣り合いがとれないことが圧倒的だ。だが、それでもなお、自分の気持ちが収まらない、何もしないでいることにどうしても耐えられないときに、人は復讐という手段をとることになる。そして、その根底にあるのは、他ならぬ復讐の相手に、お前は取り返しのつかないことをしたのだという事実を突きつけ、認めさせたいという強い思いである。あるいは、罪の重さを自覚させる、と言い換えてもいいだろう。

「よく、わかりました。あなたが立ち向かわなければならない存在は『悪意』なんですね」

 本書『ぼくのメジャースプーン』は、言ってみれば復讐を題材とした作品である。一人称の語り手である「ぼく」は小学四年生。同級生でクラスメイトのふみちゃんとは、小学校に入ってすぐ友達になった女の子だが、彼にとってふみちゃんは特別な存在として常に輝いていた。けっして可愛いというわけではない。特定の仲良しグループがいるわけでなく、人気者ではあるがひとりでいることが多い。だがふみちゃんは、ただ頭がいいというだけでなく、その知識を現実の生活と結びつけるだけの知恵も持ち合わせていた。そして何より、人をできるだけ傷つけることがないように、自身の行動をきちんと律するということを知っている女の子でもあった。自分にはとても厳しく、他人にはとてもやさしいふみちゃん――だが、学校で飼っていたうさぎがバラバラになって殺されるという忌まわしい事件が、彼女の何かを壊してしまう。クラスの誰よりもうさぎをかわいがっていたふみちゃんは、それゆえにその凄惨な現場の第一発見者となってしまい、そのショックで抜け殻のような状態になってしまった。「ぼく」がどれだけ呼びかけても、何も見えず、何も聞こえないかのようにじっとしているふみちゃんは、事件から三ヶ月経った今も、まだ登校する気配がない。

 復讐、という言葉を用いたが、本書のなかでは明確に「ぼく」の復讐を謳っているわけではない。犯人はすでに捕まっている。名前もわかっている。彼の罪はあくまで器物損壊で、しかも執行猶予の措置がとられることになりそうだということも、耳に届いている。「ぼく」はそれがどうしても許せそうにない。そして「ぼく」には、あるいはその犯人を罰することができるかもしれない、不思議な力がある。自分がやったことを反省しているというその犯人と対面する機会を得た「ぼく」は、その力を彼に対して使うことに何のためらいもない。そういう意味で、当初の「ぼく」の立場は復讐者としてのそれだと言うことができる。だが、本書のなかでもっとも重要なのは、語り手の復讐者としての立場でも、また彼がもっている不思議な力でもなく、同じような力をもつ「先生」――児童心理学の教授でもある秋山一樹の「授業」を通じて、復讐するということ、人を罰するということ、人がもつ悪意や生き物の生死、心の問題といった、けっして正しい答えの見つからない深い問題と、それでも真正面から向き合うことを意識することにこそある。

 「条件ゲーム提示能力」と「先生」が名づけたその力は、相手にAという条件を与え、それがクリアできないとBという罰を受けさせる、というもの。罰で相手を脅し、何らかの行為を強制させるというその言葉の束縛は、しかし万能ではなく、さまざまな制限や条件に縛られるものである。ふみちゃんの心を壊した犯人を探し出すと決意した「ぼく」は、結果として「先生」にその力のことを学ぶという機会を得ることになるのだが、本書が見事なのは、こうして言葉にするといかにも曖昧な能力について、考えられるかぎりさまざまな角度から検討し、その能力の発動のさせ方や応用の仕方について、事細かなルールづけをおこなっていくことで、しかるべき結末について読者の期待を高めていくことに成功している点だ。ルールづけは、必然として能力をゲーム化させる。そして、ゲームに勝つ条件はもう見えている。私たち読者は、ひとりの人間に一度だけ仕掛けることができるというその能力について、はたして「ぼく」がどのような条件と罰を提示するのか、そしてその結果がどうなるのか、気にせずにはいられなくなる。

 悪意だけで取り返しのつかないことを平気でおこない、そのことを自慢してまわるような犯人にふさわしい罰とは何なのか? 心から反省させることなのか、殺してしまうことなのか、その罰は、はたしてふみちゃんのためなのか、あるいは「ぼく」の自己満足のためなのか? 「先生」はけっして簡単に結論づけたりはしない。あくまで距離をとりつつ、他ならぬ「ぼく」が何をどう考えて、その力を使うのかを見守るという姿勢を崩すことはない。そして、「ぼく」が突きつけられる問題は、そのまま私たち読者がふだん目をそむけ、考えないようにしている問題でもあり、だからこそ切実な感情を私たちにうながすことになる。大人であってもなかなか説明できない、人間の「悪意」や生と死といった重い命題について、本書は何より「条件ゲーム提示能力」という形を借りてこのうえなく真剣に取り組もうとしている。大きな力を使うということ、誰かを一方的に罰するということ――その重みも、自身のエゴも自覚しながら、それでも自分で決めたことを成すために進んでいく「ぼく」の姿は、このうえなくひたむきで、そして美しい。

 「条件ゲーム提示能力」は、人を罰の重さで縛って行動を強制させる力のことである。だが、その力で相手を思うように動かしたとしても、それはけっきょくのところ脅されたからこその行為であって、当人の自発的な行為というわけではない。そして、そんなふうに考えたとき、真の意味で自発的に人を動かす原動力はどこからやってくるものなのか、ということに思いを寄せる。ときに、身を引き裂かれるような悲しい出来事に、容易に壊れてしまう弱い人の心、ときに、自分の命さえ犠牲にしてでも何かをやりとげようとする強い人の心――最初に述べたように、世の中には取り返しのつかない事柄というものがあるが、本書のなかで「ぼく」が示したような、ひたむきな心の力というのは、あるいは彼がもつ能力なんかよりはるかに大きく、強い力となって自身を導いていくのではないかと思わずにはいられない。身勝手で自分勝手で、しかしそれゆえにいとおしく思えるような、そんな人間の生き様が、本書のなかにはたしかに描かれている。(2007.10.02)

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