【文藝春秋】
『猛スピードで母は』

長島有著 
第126回芥川賞受賞作 



 あなたは自分の人生について、どのように思っているだろうか。まだまだこれからだ、と来たるべき未来に強い野望を抱いているだろうか。それとも、しょせんはこの程度だろう、と現状に満足しないまでも、今の境遇をありのままに受け止めているだろうか。もしかしたら、将来に何の希望も持てずに、人生そのものをなかば投げ出してしまっている人も、なかにはいるかもしれない。

 人生、何が起こるかわからない、だからこそ面白いのだ、としたり顔で語る人もいるが、正直な話、生きていくというのはそれだけで大変なことである。いかにも使い古された表現ではあるが、人生を航海にたとえた人は、なかなかに鋭い発想の持ち主だったと認めなければなるまい。けっして順風満帆なときばかりではない人生――だが、今この瞬間を大勢の人間と共有しているかぎり、そこに自分以外の人との出会いがあり、さまざまな関係が持たれ、お互いの価値観がぶつかりあい、人を傷つけたり、また傷つけられたりしながら生きていかなければならないことだけは確かだろう。
 苦しいことも、また楽しいことも、人と人との関係から生まれてくるものであるとすれば、人生というのは、あるいは人と出会う、ということと同義なのかもしれない。

 本書『猛スピードで母は』は、表題作のほかに『サイドカーに犬』という作品の2篇を収めたものであるが、けっして裕福なわけではない家庭環境を唯一の世界として認識している子どもたちが、自分のまったく知らない異質な「他者」と、ほんの一瞬だけ時間を共有したときの体験を描いた、という意味では、どちらも土台としてあるのは同じだと言うことができる。

 とくに『サイドカーに犬』では、その傾向が強く前面に出てきている。小学四年の女の子である薫の両親の仲は悪く、ある日ついに母のほうが家出してしまう。仕事をやめてふらふらしている父の代わりに家の大黒柱的存在だった母のいなくなった家に、ある日愛人の洋子や、父のマージャン仲間が自分の家であるかのようにあがりこみ、これまでとはまったく違った、不規則で非生産的な生活をはじめる。

 これまでいろいろなことに規制をもうけて子どもたちを管理しようとしていた母親とは正反対の、なにもかも野放しで、こまかいことに頓着しない洋子さんたちの薫や弟への対応は、良く言えば自由で個人の意志を尊重する、ということであるが、裏返せばただ無責任なだけである。もちろん、彼らは家族ではないのだからそれは当然のことであるのだが、子どもである薫には、そうした他人という人間関係は、これまでの人生にはまったく存在しなかった新しいものとして映っている。

 ともあれ母と父が同じ部屋に暮らしていたころは息の詰まる生活だったわけだから、母が出て洋子さんがやってきた夏は私にとってとても解放感の強いものであり、洋子さんは解放の象徴だった。

 それゆえに、けっして明るいわけではない家庭環境の中にいるにもかかわらず、その雰囲気はけっして陰鬱ではない。そこには何かにつけて教訓的な大人の視点ではなく、あくまで素直な子どもの視点で物語が描かれており、非日常を日常のように表現するその文章力は、味わい深いものがある。

 どこかなげやりなようにも見える大雑把さ、無責任にも思える放任主義――この洋子の気質は、そのまま『猛スピードで母は』に登場する慎の母親にも引き継がれている。もうすぐ小学六年になる慎の家庭には、もう父親がいない。母は父と離婚して慎とふたりで生活しているのだが、彼女はおよそ慎のことについて、必要以上に気にかけたりしない。そして、そんな母親のことを、とくに情の薄い母だと恨むふうでもなく、「信頼されているからだとは思えなかった。どうでもいいと思われているのでもなさそうだ」と、少し冷めた目で見ている慎がいる。

『猛スピードで母は』という、強いインパクトを与えるタイトルとはうらはらに、物語全体に漂っている雰囲気は、あくまで「静」である。それは、たとえば真夜中に近くの水族館から不意に聞こえてくるトドの鳴き声であるとか、朝靄の中で静止している観覧車やメリーゴーラウンドといった情景描写の妙もあるのだが、なにより母親がその身にまとう雰囲気が静かなのだ。

 おしとやか、というのとは違う。奥ゆかしさというのでもない。どちらかと言えば、慎の母は仕事にも恋愛にも積極的であり、また世間体といった常識にけっして縛られることのない、自由気ままなイメージのつきまとう女性である。にもかかわらず、少なくとも「猛スピード」という言葉とは程遠い印象を受けるのは、彼女が慎に対して、ほとんど人間臭い感情を吐露するようなことがないからだろう。母にとって、慎は間違いなく自分の息子であるのだが、同時に自分と同じひとりの人間として見なそうとしているところがある。

 母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。――(中略)――PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ。

 自分の人生に対する不思議な諦念――おそらく、これまで無限にあったはずの可能性の中から、意識するしないにかかわらず選択してきた結果として存在する今の自分を、これから先のことも含めてすべて受け入れていこうと決意したときに訪れる、心の平静とも言えるものを、この母親はたしかに持っている。そして慎は、そんな母親の息子である。『サイドカーに犬』の薫にとっての「異質な他者」であった洋子は、『猛スピードで母は』の母に変わることで、「異質な他者」ではなくなったのだろうか。

 いや、おそらく変わってはいまい。慎にとっての母もまた、まぎれもない母であると同時に、ひとりの対等な人間なのだ。親子関係であることを越えた、もっと純粋な、人と人との関係――おそらく慎は、これからも母親の「異質な他者」としての一面を見つづけることだろう。ある日突然、猛スピードで車をかっ飛ばしていく母親の姿を。(2002.03.13)

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