【朝日新聞社】
『ミステリアスセッティング』

阿部和重著 



 嘘や言い訳、あるいはその場をとりつくろうためだけに消費される言葉を聞くことほど、むなしいと思うことはない。聖書にある「はじめに言葉ありき」の「言葉」とは「ロゴス」、つまり秩序とか論理を表す単語であり、言葉とは秩序そのものとしての性質を有しているはずなのに、いつのまにか人は、表面上の言葉をそのまま受け取るのではなく、その裏に何が隠されているのかを詮索するようになり、人の裏をかき、相手をいかに出し抜くかがコミュニケーションであるかのように思い込んでいる。いや、言葉というものがただの言葉でしかなく、その先につながっているはずの意味がかならずしも共有できるとはかぎらないという相対主義の時代において、それはあるいは至極自然な人々の反応なのかもしれない。だが、私たちが自分の意思を伝達するためには、言葉という道具を頼るほかにないのだ。言葉が言葉どおりの意味をもつわけではなく、きわめて恣意的なものであるとするなら、人は言葉を使って人を騙し、陥れることもできることになるし、じっさいにそういうことは子どもでもしょっちゅう行なっている。

 むろん、そうした言葉の恣意性は、ときに言葉のもつ可能性を垣間見せることもあるし、だからこそ言葉とは興味深く、また表現豊かなものでもあるのだが、言葉が自分の都合のいいように、本来あるべきルールを無視するような使われ方をされつづければ、言葉のもつ価値は、それこそオオカミ少年の言葉と同じくらい下がってしまうことになる。そんなふうに考えたとき、人間にとっての言葉というのは何なのだろう、下劣な人間によって、下劣なものへと成り下がってしまう言葉というものに、いったいどれほどの価値があると言えるのか、と思わずにはいられなくなる。

 真相がそんな歪んだ姿をしているのだとすれば、他人とコミュニケーションを交わすことなんて出来やしない。――(中略)――口に出した言葉はまともにキャッチされることはなく、宙空をふわふわと漂って、そのうちシャボン玉みたいにぱちんとはじけて消えてしまうのだ。

 本書『ミステリアスセッティング』は、ある女の子に与えられた試練と悲劇を描いた作品であり、また悲劇特有のカタルシスを目指した物語でもあるが、そうした物語の筋書きもさることながら、私が本書を読み終えて注目したのは、その主人公であるシオリの性質についてである。

 シオリは歌を唄うことが誰よりも好きで、中学生の頃に自分は吟遊詩人として生きていくのだと真面目に思い込んでいたが、極度の音痴で唄うたびに周囲の人々を不快にさせるがゆえに、声を出して唄うことができずにいる、という矛盾をはらんだ人物である。そして、彼女が唄う歌というのは、たいていが単純な音の組み合わせであって、言語という形をとることがない。それゆえに、とくに妹のノゾミからは拒絶反応を示され、まったく理解できない雑音として反駁されることになるのだが、シオリのもつそうした性質は、私たちが知らず知らすのうちに囚われてしまっている言語という枠から、解き放たれているという意味で、非常に興味深い象徴を含んだものだとも言える。

 とはいうものの、シオリのもつ歌の要素が物語の展開として大きな意味をもつことはなく、むしろ強調されるのは、彼女の底知れないお人好しな性格だ。およそ、他人の言葉を疑うということを知らないシオリは、それゆえに高校時代も専門学校に入ってからも、友人と称して近づいてくる人たちにいいように利用されてしまうのだが、そのことに気づいたら気づいたで、相手に対して怒りをぶつけるのではなく、自分の鈍感さ、愚図さを責めるという方向に向いてしまう。

 じっさい、物語の流れのなかで、妹のノゾミをはじめとするシオリとかかわりになる登場人物たちの使う言葉というのは、いずれも建前ばかりが強調された、まったくといっていいほど実のともなわない、空虚な言葉の羅列という印象を強くさせるエピソードに満ちている。それらはいずれもシオリをあざむくための言葉、彼女を自分たちの都合のいいようにこき使うための言葉であり、それゆえに読者は彼らに対する不快感をいや増すことになるのだが、それは同時に、彼らの用いる言葉の空虚さ、しいては私たちが囚われてしまっている言葉に対する不信感にもつながっていくものだ。

 先生によれば、詩人というのは誰もがひとりぼっちである、とのことだった。
 詩人は除け者で、嫌われ者なのかと、シオリは悲しくなったが、だから唄ってばかりいるのだろうと思い、納得したのだった。

 自らを吟遊詩人と称しながら、唄うことを誰からも望まれておらず、また作詞家になることを目指しても、歌詞を書き言葉として書き留めることに違和感をいだき、けっきょくのところ作詞活動にも支障をきたしているシオリにとって、言葉とは何なのか、歌を唄うこととは何なのか――相手の言葉をそのまま受け止めて疑うということを知らず、いつもいいように利用されてしまうお人好しなところがありながら、ただひとつ、自分自身の歌にかんすることについてはけっして曲げることのない頑固さを見せる彼女の歌声、その言葉は、誰の耳に届くのか。そして彼女の存在は、彼女を取り巻く現実にどのような影響をおよぼすことになるのか。その明確な答えが本書のなかに提示されるわけではない。なぜなら、シオリの歌は言葉という体系を経ることはなく、それゆえに彼女の思いは相手に届くことがないからだ。そしてシオリもまた、相手の言葉の裏にあるものを読み取ることができず、相手の真意を誤解してしまう。そういう意味において、本書の登場人物たちは、お互いに対話という形をとっていながら、そのことごとくが自分の都合のいいように言葉を解釈してしまうというディスコミュニケーションの様相を呈している。

 言葉のキャッチボール、という言い回しがある。誰かと会話を成立させるためには、ただ言葉を投げかけるだけではなく、それを聞く側の技量も必要となってくる。ただ話すだけではない、ただ聞くだけでもない積極的なはたらきかけが、会話の成立には必要となってくるのだが、そうした本当の意味での会話を、私たちはどれだけ行なっているだろうか。本書の物語が、じつはある老人が語るという形式をとっているという点を考えても、けっきょくのところ重要なのは、その言葉を受ける側の態度次第、ということになるのではないだろうか。私は本書が悲劇だと述べた。それは、言葉というコミュニケーションの道具を駆使していながら、その恣意性に囚われているがゆえに誤解ばかりが増大していくことの悲劇であり、言葉が本来の役割をはたせない孤独のなかに、頼るものもなく放り出されていることの悲劇でもある。

 本書のタイトルである『ミステリアスセッティング』というのは、宝飾技術のひとつで、石を止める爪をもちいることなく宝石を合わせ留める技法だという。それはあたかも、言葉という宝石の周囲にいつのまにかこびりついてしまった人間の雑多な思惑を完全にそぎ落としたうえで、なお輝きつづけるものを示唆するようなタイトルであるが、もしその解釈が正しいとすれば、読者は本書を読み終えた後に、その輝きつづけるものの片鱗を垣間見ることになるだろう。(2008.05.20)

ホームへ