【偕成社】
『精霊の守り人』

上橋菜穂子著 



 世界各地にその痕跡が残されている精霊信仰――それは山川、草木、あるいは火や風といった自然現象には、私たち人間と同じく魂が宿るものと考え、それらを畏怖し、崇拝することで、自分たちの生活を自然という、あるときは恩恵を、あるときは大きな災害をもたらすものから守っていこうとする考え方である。精霊信仰はアニミズム、あるいはトーテミズムと同様、未開宗教の一形態であり、文明を起こして都市に定住し、さらに科学という新しい宗教を手に入れた現代の人々にとっては、いかにも胡散臭い、呪術的な迷信にすぎないとされている、というのが私たちの一般的な考えだ。

 科学技術の力は私たちの生活をたしかに快適にし、さまざまな新事実や大発見をもたらし、人類の文明の発達に大きな貢献を果たすことになった。だが、その一方で私たちは、公害や温暖化現象といった形で、科学の力を過信しすぎ、すべての生物の頂点に立ったという思い込みが、いかにただの思いこみにすぎないか、ということ――けっきょくのところ私たちもまた自然の一部であり、自然の力を征服することはおろか、それを無視して生きることすらけっしてできはしないのだ、ということにも、気づきつつある。まるでちっぽけな人間をあざ笑うかのように襲ってくる天変地異を例に挙げるまでもなく、私たち人間がいかに驕り昂ぶろうと、自然の前には無力である、という認識――精霊信仰には、自然とともに生きること、自然の共存という、生物が本来あるべき生き方のひとつの形を成していると言えるのだ。

 本書『精霊の守り人』は、そうした精霊信仰がたんなる信仰ではなく、世界の真実の姿として実在しているという、独特の世界観のもとに築かれた古代ファンタジーである。もっとも、本書の世界では、人間たちが住まう「こちらの世界(サグ)」と精霊たちの住まう「あちらの世界(ナユグ)」、という表現の仕方をしているが、ナユグにはナユグ独自の生態系があり、人間たちと同じく命を宿し、生活を営んでいる、という意味では、サグの世界もナユグの世界も同等のものとしてとらえられているのだ。そして、本書の物語はある意味で、それまで人々が忘れてしまったナユグの世界の再認識――突然の天変地異が人々にあらためて自然の猛威を思い知らせ、畏怖させるのと同じように――の物語でもある。

 ひょんなことから川に溺れた新ヨゴ皇国の第二王子チャグムを救った女用心棒バルサは、二ノ后の口から、チャグムを事故に見せかけて暗殺しようとする帝の思惑を聞き、チャグムを安全な場所まで逃がしてくれるよう依頼される。チャグムには何か得体の知れないモノがとり憑いている、というのが、皇国の政を司る星読博士の言葉だったからだ。帝の威信、さらには聖祖トルガルの建国神話を守るために命を狙われることになってしまったチャグムと、やっかいなことに巻き込まれたと思いながらも、チャグムを助けるために厳しい逃避行を開始したバルサ――いっけん、よくありがちな権力争いを描いているのかと思わせる冒頭ではあるが、話がチャグムにとり憑いたモノの正体、サグとナユグ両方の世界の天候にかかわると言われる「水の守り手(ニュンガ・ロ・イム)」の卵にいたるにつれて、物語は「新ヨゴ皇国」の建国神話と先住民族ヤクーに伝わる民間伝承の問題、そして人間の目に見えるサグと、人間の目には見えないナユグというふたつの世界にかかわる問題にまで広がっていくのである。

 もちろん、児童書として書かれた本書を、純粋に物語として読んでも、その魅力は充分に語ることができるだろう。齢三十にして神速の短槍使いであり、ひたすら強く、賢く、女性でありながら用心棒として戦いのなかで生きる道を選んだバルサや、そんな彼女とは幼なじみであり、誰に対しても物怖じしない薬草師のタンダ、またバルサ以上に「おてんばバアサン」であり、高名な呪術師でもあるトロガイの人を食ったような性格など、キャラクター的な魅力はもちろんのこと、「水の守り手(ニュンガ・ロ・イム)」の卵を食らうと言われるナユグの怪物ラルンガを退治する方法を探して、ヤクーの民間伝承を訪ね歩いたりするちょっとしたミステリーの要素、それまでひ弱で世間知らずの皇子でしかなかったチャグムが、少しずつバルサたちと心を通わせ、また厳しく鍛えられて一人前の男として成長していく様子、刺客との息詰まる戦闘シーンなど、枚挙に暇がないほどであり、しっかりと組み上げた世界観とともに、読者をぐいぐいと引っ張っていく力を持っている。だが、あえて野暮を起こして深読みしてみるときに、どうしてもその中心になってくるのは、間違いなくナユグという「あちらの世界」の役割ではないだろうか。

 本書によれば、サグとナユグとは「この世とあの世」といった関係ではなく、双方がお互いに支え合うことでバランスをとっている、という。そのひとつの例が、ナユグの生物でありながら、百年に一度サグの世界に住む人間の子どもに卵を産みつけるという「水の守り手(ニュンガ・ロ・イム)」の存在だろう。そして、かつてヤクーたちは、卵を宿した子どもを「精霊の守り人(ニュンガ・ロ・チャガ」として守っていたという。そこには、ニュンガ・ロ・イムが水の精霊であり、それが雨を呼び、地上を旱魃から救うということを、知恵として知っていたという事実があり、その点が、「新ヨゴ皇国」の星読博士たち――天文学に通じ、長年の経験とデータから旱魃を予測することはできても、根本的な解決策には到らない――とは根本的に異なる点である。

 だが、著者はけっして星読博士たちや皇国の住民たちが愚かで、ヤクーたち先住民族が正しく、賢いのだと訴えているのではない。それは、物語が最終的にそれらふたつの知識を合わせたときに、はじめて正しい解答が得られる、という展開を見ればあきらかだ。そしてさらに、ニュンガ・ロ・イムの卵産みは、本書の世界においてはひとつの生態系、自然な出来事にすぎないのである。それは、あるいはどんなに奇妙で理不尽なように見えても、自然という大きなものとともに生きる生命の神秘であり、そんな自然の営みになかば振り回されている登場人物たちの姿は、奇しくもトロガイが自嘲してみせたように、あるいは今の私たち――さまざまな現代病に悩まれ、いつもストレスを溜めてばかりいる文明大国の人間たちの、大局から眺めたときに感じる滑稽さにも通じるものがある。

 サグに住む人間たちがけっしてナユグという、もうひとつの世界のことを忘れてはならないように、私たちにもまた、けっして忘れてはいけないことがある。本書がたんなる古代ファンタジーであることを越えて、読者の心に訴えるもの――もしそれがわかれば、私たちは他人に対して、そして何より世界そのもに対して、もっとやさしく、謙虚になって生きていけるのではないだろうか。たとえ、その生が理不尽で、多くの苦難に満ちていたとしても。(2001.08.22)

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