【講談社】
『桜の森の満開の下』

坂口安吾著 



 私も日本人であるからには、毎年春になるとほんのつかのまだけ咲き乱れ、そしてあっという間に散ってしまう桜の花を愛でる心くらいはあるつもりだが、張り出した枝という枝を埋め尽くし、空さえも覆いつくさんとするかのように咲き乱れる桜の花の、淡い薄桃色一色に染まってしまった光景というものには、私たちがよく知っている草花の生育とはどこか一線を画した、特殊な何かがあるような気にさせるものらしい。「桜の木の下には死体が埋まっているに違いない」と書いたのは、梶井基次郎の『櫻の樹の下には』という作品であるが、光合成をするための葉をまったくつけることなく、ただ無心に花ばかりを咲かせるその瞬間は、言われてみればたしかにどこか狂気めいたものを感じさせるものがある。

 桜の花を美しいと感じるのは、その散りぎわの儚さと関係があるものだと思っていた。だが、よくよく考えてみれば、植物が花をつけるのは、たいていはほんのしばらくの期間のことであり、散りぎわが儚いのは何も桜にかぎったことではない。本書『桜の森の満開の下』を読み終えたときに私がふと思ったのは、この桜の花の美しさと、その無心に咲き乱れるさまを惜しげもなくさらけ出している一種の狂気性との関連性である。

 本書はべつに桜の花のことばかりを描いた本ではなく、ある山賊と、彼がさらってきた美しい女の話である。女は都の住人で、街道を下っているときに山賊に襲われ、さらわれてきたのだが、その山賊に亭主を殺されたにもかかわらず、女はそのことを恨みに思うようなそぶりは露も見せないばかりか、つれてこられた山奥の家に着くなり、以前にこの男にさらわれてきた女たちをことごとく殺せと命じ、山賊にそれを実行させてしまうというとんでもない女なのだ。だが、その女のあまりの美しさにすっかり魅了されてしまっている山賊は、何か変だと思いながらも、その女のもつ狂気になかなか目を向けようとはしない。

 桜の森の満開の下です。あの下を通るときに似ていました。どこが、何が、どんな風に似ているのだか分かりません。けれども、何か、似ていることは、たしかでした。

 大昔は、人は桜の花の下を怖ろしいと感じ、その下を通る人間は気が変になって一目散に逃げていくのだと、本書の冒頭にはある。私は本書のタイトルにあるような「桜の森」、つまり四方八方が桜で埋め尽くされているような場所は知らないし、そうした光景にお目にかかったこともないのだが、もし仮にそんな場所があるとして、そこに人っ子ひとりおらず、ただ自分だけが取り残されたとしたら、あるいはそれは江戸川乱歩の『鏡地獄』のような恐怖に見舞われるのかもしれない。だが、本書が提示する恐怖とは、そこに人間的な思考が存在していない、ということに対しての恐怖であり、なおかつすさまじいことに、そうした非人間性こそが人智を超えた美しさを生み出している、という事実である。

 じっさい、山賊がさらってきた女は美しいのだが、それは容姿が整っているから美しいのではなく、自分の欲望のままに他人の命を奪うことを強要し、そのことに何の逡巡も感じないばかりか、山賊に狩らせた人間の首でままごと遊びをすることを心から楽しんでさえいる、その姿こそが美しいのだと言える。そこには、およそ人間らしい感情など無きに等しいのだが、そもそも自然の草木が咲かせる花々もまた、人間が美しいと思う心とはまったく無関係な摂理にしたがって生きているのであり、けっきょくは動物や昆虫たちをおびきよせるための罠でしかないのだ。人間が当然もってしかるべきさまざまな感情――そうした心の動きを超越した部分で成り立っている美というテーマが、本書のなかに見え隠れしている。しかし、美しいと感じる人間が存在しないところで浪費されていく美の、なんと虚しいことか。

 著者の坂口安吾は、たとえば『堕落論』のなかで、第二次大戦の大空襲で焼け出された人々の、あらゆる思考が停止した無心の状態に「虚しい美」を感じ、「戦争中の日本は嘘のような理想郷」だったと述べている。これは、人間は常に何かを考えずにはいられない生き物であり、そして思考するということが人間の逃れられない性であることを悟ったうえで、それを「堕落」と称し、どちらにしろ堕落していくのであれば、他人の思考によって生み出されたものではなく、まぎれもない自身の思考に基づいて「正しく堕ちる道を堕ちきる」ことの奨励でもあったのだが、そういう意味で本書に登場する女は、まさに何物にも縛られることのない、自由な意思にのみ従って生きている存在なのである。ただし、その「自由な意思」とは、同時にどのような人間的価値観とも無縁である、ということと同義であり、基本的に著者の別作品『白痴』に登場する白痴の女と変わらない。

 私たちは桜の花の咲き乱れるさまを美しいと感じる。だが、その美しいと感じる心は、いったいどこから生じるものなのだろう。いや、そもそも自然である、ということは、それほどに美しいものなのだろうか、あるいは怖ろしいものなのだろうか。私たちがそれまであたり前だと思っていたさまざまな人間的思考について、今一度考えさせられるものが、本書にはたしかにある。(2004.09.06)

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