【河出書房新社】
『迷宮のラビア』

三田誠広著 



 私が三田誠広の著書で読んだ事のあるものと言えば、芥川賞を取った『僕って何』ぐらいなものだったのだが、あれから三十年ほど経った今もなお、著者のテーマは一貫して「自分探し」にあるようだ。そんな著者にとって、オウム真理教がひきおこした一連の惨事は、ある意味で「自分探し」をもっとも深く考えさせられる事件だったと思われる。あるいは、オウムなどの新興宗教に傾倒していく生真面目な若者達の「僕って何」という切実な想いが、著者をして本書を書かしめた、と言ってもいいのかもしれない。

 本書『迷宮のラビア』では、「パドマ教」という、明かにオウム真理教を模した宗教団体が登場するが、その導師に福音史家(エヴァンゲリスト)としての役割を与えられ、導師のことばを記憶し世の中に伝えるという使命を負わされたのが与那覇明、洗礼名ヨハネという青年である。物語は、彼が記憶喪失となって新宿の雑踏を徘徊しているところを保護され、なぜかある大学の学生として授業に参加しているところからはじまる。彼の記憶喪失は進行性のものらしく、少し頭痛がしたり気を失ったりすると、とたんにヒューズがとんだみたいにそれまでの記憶がとんでしまい、自分が何者でどこに住んでいるのかさえわからなくなってしまう。そんなヨハネがごく普通に大学生活をおくっている(ように見える)のも不思議なのだが、さらにヨハネはその大学の授業で、学生でありながらアダルトビデオにも出演している榊原ルカと知り合い、その縁で、SMビデオの監督で有名なムラカミ監督の助手兼男優として、アダルトビデオの製作を手伝うことになる。
 緊縛、鞭打ち、放尿に飲尿、浣腸――スタジオで次々と展開されていく変態的光景と重なり合うようにして、かつて自分が所属していた教団の異様な修行の様子がヨハネの脳裏でフラッシュバックする。そして、頭に埋めこまれた電極とアンテナ(ヘッドギア、と言えばわかるだろう)によって聞こえてくる、宇宙の真理としての導師の声――だが、それらの記憶もいともたやすく抜け落ちてしまい、そしてルカは何度も何度も繰り返す。「あたしはルカよ。そしてあなたはヨハネ」と。

 自分は何者なのか、何のために生きるのか……。金銭や快楽といった物質的な欲望に満足できない生真面目な――ある意味傲慢とも言える人間は、精神的充足感を求めて新興宗教へとのめり込んでいく。だが、あたり前のことだが、悩み苦しんでいるのは何も彼らだけではない。

 AV女優の榊原ルカは言う。

「あたしね、こう思うの。あたしが下着を脱いで放り出しておくと誰かがあたしの幻想を見る。あたしがカメラの前で裸になるとその映像を見て誰かが幻想を抱く。下着も映像もあたしの影にすぎないの。本当のあたしはどこにいるのかしら」

 また、M女のエリザは言う。

「何かのために行きたいと思うのは贅沢かもしれへん。そやけど、ただ生きてるだけやったら、わたしらの人生て、幽霊みたいなもんと違うやろか」

 教団の修行と称するものが、けっきょくのところSMと称する一連の変態行為と大した違いがないのと同じように、精神的充足を求める信者もAV女優も――さらには「パドマ教」の導師もAV監督もみんなひっくるめて、本当の自分の姿を求めて悩み苦しんでいるという点では、みんな同等なのだと言える。そんななか、ヨハネはただひとり、物質的な欲望にはもちろん、精神的な欲望にさえたいして興味をもたない――良く言えば超越的、悪く言えば無気力な人間として描かれている。じっさい、彼は記憶喪失であるにもかかわらず、失われた自分の記憶を積極的に取り戻そうとしないし、そもそもそんな考えに行きつくこともないように思える。

 ヨハネは、おそらく気がついているのだ。ビデオに映っている自分も、それを見ている自分も影でしかない、ということを。同じように、フラッシュバックする「パドマ教」での断片的な記憶も、経験したその場から消えてゆく記憶も、すべては幻想なのかもしれない、ということを。ならば、その影を生み出している光は、いったいどこにあるのか。

 本書は、けっしてオウム真理教を肯定する小説ではない。それは、かつてその驚異的な記憶力を買われ、厳しい修行を得ることなく「パドマ教」の幹部に祭り上げられたヨハネが、俗世間の、しかもアダルトビデオの製作現場という、俗の極みにあるような場所に身を置くことで、自分にとっての光を求めるという、ある意味で究極の「自分探し」の物語なのである。(1999.05.11)

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