【早川書房】
『ミサキラヂオ』

瀬川深著 



「世界最大の電子書籍目録」を標榜する「総合図書大目録」というサイトには、永江朗の連載コラムが載っていて、私も最近チェックするようになっているのだが、なかでも「本屋大賞」にかんする話は、なかなか興味深いものとして今も印象に残っている。というのも、そもそも「本屋大賞」が生まれた背景には、現代の書店員のかかえる孤独がある、ということが書かれていたからだ。

 書店という職場ではたらくことがなぜ孤独なのか、そしてその孤独がどのようにして「本屋大賞」と結びつくのか、といった点については、じっさいのコラムを読んでもらうことにして、そのコラムのなかで私が注目したのは、全国の書店員が「売りたい」本を選ぶという、それまでにないスタンスをもつ「本屋大賞」が、書店という場をたんなる販売場所ではなく、情報発信の場として見直す契機になった、と判断していることである。これは逆に言えば、それまでの書店が効率よく商品を売るための場所と化していたことを意味しており、その無味乾燥さが書店員という仕事をよりいっそう孤独なものにしていた、ということにつながっていくのだが、たとえば新古書店であるBOOK−OFFにおける、本の買い取りの仕組みが完全にシステム化されており、そこにもはや目利き的な専門知識を必要としないという現実を見てもわかるように、業務の効率化という流れは出版業界においても、例外なく浸透してしまっていることだと言える。

 物事がシステム化され、業務が簡素化されていくという流れそのものは、けっして悪いことではない。だが、そうした効率化の流れが、そこで働く人間をより孤独なものにしていったという事実が、そのコラムからは垣間見えてくる。そうでなくとも、個人と社会とのつながりがこのうえなく希薄になりつつある現代において、それでもなお人々が自身の価値を信じて生きていくためには、それこそ「本屋大賞」のように、ささやかながらも情報を発信するというアクションが、あるいは必要になってくるのかもしれない。

 本書『ミサキラヂオ』の舞台となるのは、「ミサキ」と呼ばれる港町である。太平洋上に突き出た半島の突端にある町であり、行政上の地名はあるものの、そこに住む人たちは誰もがそこを「ミサキ」と呼ぶ。半島の内陸部にある「マチ」、漁港のある一帯を指す「ミナト」、そして、そこからさらに先の島を表わす「シマ」――こうした、一般名詞であるはずのものが、あたかも固有名詞であるかのごとく使われている本書の世界は、じつは2050年の未来の日本であることがわかってくるのだが、にもかかわらず、まるで近未来とは思えない妙な懐かしさを感じさせるのは、この物語の中心を占めているのが、ラジオ局というある意味でレトロな存在だからに他ならない。

 ――ああ、ラジオだ。FMラジオ。低出力のやつでな、コミュニティラジオってやつだ。せいぜいミサキの一帯にしか電波は届かないが、そのぶん地に足をつけた濃いものが作れる。音楽も流しゃ、ローカルニュースだって流す。そこいらの学生にインタビューやらせて、番組作ったっていい。

 ミサキ随一の水産物加工会社の社長が奮闘し、地元でふらふらしていた漁師の息子や若いころに東京の音楽スタジオで働いていた経験をもつ男をDJや録音技師として雇いこんで、どうにかこうにか開局にいたった「ミサキラヂオ」は、しかしその土地柄のせいか、なんの予告もなく時間がズレてしまい、番組表の予定どおりに放送されることが滅多にない。ラジオのスイッチをひねるまで、どんな電波を拾ってくるのか誰にもわからないという、なんとも困ったラジオ局は、しかし開局から五年を経た今では、しがない小説家である土産物屋店主の朗読や、高校の音楽教師によるクラシック放送、農業を営む青年による自作の詩の朗読など、ミサキに住む人たちのささやかな自己表現の場として機能しつつある。

 こんなふうに書いていくと、まるで地方のコミュニティラジオの開局をメインとしたフィクションとしての奮闘記のようなものを思い浮かべるかもしれないが、その部分はさらりと流されている感がある。むしろ、ある特定の登場人物に主体を固定することなく、ミサキに住む多くの人たちに次々と視点を移しながら、全体としてはとりとめのない日常生活や、いかにもありがちな日々の出来事を描いていく話、と評したほうがより正確だ。そしてそのなかの風景のひとつとして、「ミサキラヂオ」の存在が垣間見えてくる。

 そのタイトルからもわかるように、本書は地方のコミュニティラジオの物語であり、その中心にあるのが「ミサキラヂオ」であることは間違いないのだが、本書を読み進めていくうちになんとなくわかってくるのは、ここでいう「中心」というのが、さまざまな個性をもつひとクセもふたクセもある人たちをひとつの場所に集め、その力をまとめて大きなことを成そうとするための「中心」ではなく、むしろそれぞれの登場人物にとってのささやかな「中心」だということである。そもそも「ミサキラヂオ」の特徴ひとつとってみても、番組表どおりに放送されることのない、ある意味でいい加減な要素をもっており、人々を有無も言わさずまとめあげるような吸引力をもつようなものではない。だが、にもかかわらず「ミサキラヂオ」は、それぞれがバラバラにものを考え、生活している人たちをゆるやかに繋いでいく場として機能している。

 そうしたゆるやかなつながりは、物語の構成にも表われている。たとえば、「ミサキラヂオ」に「第三の猫」のラジオネームで投稿しているある高校生は、ラジオの時間のズレに何らかの法則性がないかと、ミサキじゅうを自転車でめぐっては記録をつけている。そして彼の相談役としてミサキの研究所に勤めているドクトルがいて、彼はミサキの昔からの住人ではないものの、ミサキの内科医として「シマ」の診療所にも出向いており、けっしてミサキの人たちと無関係ではいられない。また第三の猫がひそかに思いを寄せる同級生のワタナベユミは、「ミサキラヂオ」で詩を朗読する会のメンバーとして、自作の詩を朗読するという形でラジオとかかわることになり、そんな彼女とほぼ同じ時間に生まれたワタナベユーミという女の子は、「ミサキラヂオ」に出演するお笑い芸人ヤチマタナリタのひとりとステディな関係をもつにいたる。

 同じ「ミサキ」という土地に住みながら、そこに住む人たちはそれぞれ価値観も考え方も異なっている。それは、ある意味であたり前のことであるが、かといって彼らが完全に孤立しているかといえば、けっしてそんなことはない。そのつながりは、ふだんの生活のなかではなかなか見えにくいものであるのだが、その見えにくいものをあえて形にしたものとして「ミサキラヂオ」の存在意義が出てくる。こうした物語の構成は、同著者の『チューバはうたう』のなかに収録されていた『百万の星の孤独』のなかにも見受けられたものであるが、本書における地域コミュニティラジオは、プラネタリウムが星々の光を投影するように、電波を送り届けていく。そして本書の人たちは、ただたんに星を見るのではなく、電波に自身の想いや主張を乗せるために集まってくる。

 私たちはもはや、自分が世界の中心だと信じていられるほど無邪気ではない。あくまでこの世に大勢いる人たちのひとりでしかなく、自身の存在が社会にさほど大きな影響を及ぼすようなものでないことも知っている。知っているのであれば、そのことはたんに受け入れるしかない事実なのだが、そうした事実は、ときに生きるということそのものをこのうえなく空しくさせる。私たちひとりひとりがもつ物語は、ほんのささやかなものでしかない。だが、そのささやかな物語を発信する場がある、という事実は、そんな私たちにとってひとつの救いとなってくれるものなのかもしれない。そしてそのささやかな情報発信源は、もしかしたら「本屋大賞」のように、より大きな流れを生み出すかもしれないのだ。そうした「場」を、きわめて個人に特化したインターネットにではなく、ラジオ局に求めたことが、本書のもっとも大きな功績だと言えよう。(2009.08.12)

ホームへ