【新潮社】
『ムーン・パレス』

ポール・オースター著/柴田元幸訳 

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 人は木の股から産まれてくるわけではない。自分がこの世に存在している以上、かならず自分を産んだ母親がいて、種を提供した父親がいるはずである。だが、世のなかにはそうした自分のルーツや血筋について、きわめて現実的な事実よりも、自分なりの真実――自分は木の股から産まれたのだという真実を信じ、それを自身のアイデンティティとして生きていこうと考えている人たちがいる。そして、そうしたテーマで書かれた小説も数多く存在する。藤谷治の『おがたQ、という女』がそうであるし、エレン・ウルマンの『血の探求』もそうだ。

 自分が誰の遺伝子を受け継いでいるのか、自分の血筋はどこの家系に連なっているのか、という命題は、個人の力ではどうにもできない要素であるがゆえに、自己を形成するうえできわめて強い力を個人に対して振るう。たとえば、親戚に狂人が出れば、自分もいつか狂ってしまうのではないかと考えずにはいられない。血筋とはそういうものだ。人は両親を選べない。もし、その事実を理不尽だと思うのであれば、自分は木の股から産まれたという想像を信じ込んで生きるしかない。あるいは、自分は孤児であるという「真実」を生きるかだ。血筋は塗り替えることはできないが、情報としての血筋をそもそも知らない、知りえない環境に置かれているのであれば、その人物はある意味で、血筋や家系から自由でありえる。彼は何もないところから、自身の言動の結果をすべて受け入れたうえで、なりたい自分になることができる。

 それは、ある人にとっては福音であるかもしれないし、別の人にとっては苦痛であるかもしれない。今回紹介する本書『ムーン・パレス』を読み終えて、語り手であるマーコ・スタンリー・フォッグにとっては、はたしてどちらだったのだろうか、とふと考える。自身の過去を回想するという形で展開する本書において、彼は当初、自分の父親のことをまったく知らないまま育った青年として登場する。母親のエミリーは彼のそばにいたが、父親のことには触れないまま、彼が十一歳のときに交通事故で亡くなっている。それ以降、彼にとっての唯一の肉親は、クラリネット奏者のビクター伯父だけとなっていたが、その伯父とも彼の大学在学中に死別するという不幸に見舞われる。

 物語は、こうして天涯孤独の身となった語り手が人生に絶望し、住む場所も生活費も失って餓死寸前だったところを、友人のジンマーと、後に恋人となる中国人キティ・ウーに救われるという展開になる。そしてその後、なんとか立ち直ろうと決意した彼の身の上に起こった、彼自身が言うところの「自分の人生のはじまり」だと自覚するにいたる、いくつかの数奇な出来事のことがつづられていくのだが、ここで私がもちいた「数奇」という言葉は、まさに文字どおりの意味である。数奇な物語――そう、語り手が語る、彼の若いころの身の上話は、あまりにも劇的でいくつもの偶然に彩られており、非常に物語的な展開なのだ。だが、不思議なことに本書を読んでいくと、それがいかにも作り物めいたもの、どこか嘘っぽいという感じよりは、むしろそんなことももしかしたらありえるのかもしれない、という感じのほうが強くなっていく。

 語りの上手さ、というのもありえることである。だがそれ以上に、本書が描き出す世界が、たしかな「広がり」をもっているということでもある。私たちの生きるこの現実世界は、私たちが考えている以上に多様であり、およそありえそうもない幸福や不幸が起こってしまったりする。マーコ・フォッグのように、親戚と呼べる人が若いうちにみんな死んでしまい、天涯孤独の境遇にさらされるというのは、少なくとも私の身辺には見当たらないが、それは私が実例として知らないというだけのことであって、広く世界に目を向ければ、いくらでもありえる事柄である。

 私たちは、自分の経験していないこと、見聞きしていない出来事であっても、それが現実にはありえない、存在しないものだととらえることはない。もちろん、あまりに突拍子もないことであれば別であるが、たとえば目をつぶった結果として何も見えなくなったとしても、それで世界が消滅したのだと信じることはない。それはたんに自分の目に見えていないだけであって、世界は確固としてそこにあるということを私たちは疑わない。だがよくよく考えてみれば、そうした確信がどこから生じているのかについて、私たちは驚くほど何も知らないのだ。

 家には父の痕跡は何も残っていなかった。一枚の写真も、ひとつの名前さえも。何もとっかかりのないまま、僕は父をバック・ロジャーズの黒髪版として思い描いた。四次元世界に迷い込んで、戻ってこられなくなったスペース・トラベラー。

 マーコ・フォッグの語りによって展開していく本書の世界は、リアルでありながらどこか彼自身と乖離しているという印象があるが、その要因を父親の不在と結びつけるのは、安易だろうか。だが、子どもが自分のたしかな居場所としてこの世界を受け入れるための、自己肯定の象徴としての父親の不在は、彼にとっての世界が中途半端なままであることを意味する。世界は自分を完全には受け入れてくれていない――まさに上述の、手に届かない四次元世界であるかのように、語り手は自身の世界をとらえているようなところがある。それは言い換えるなら、この世界に対して自分はまったくの無力であるという認識である。

 本書のタイトルにもなっている「ムーン・パレス」とは、語り手がはじめてひとり暮らしをしたアパートの窓から見える、中華料理屋のネオンサインからとられたものであるが、本書ではしばしば月が象徴的な役割として作中に入りこんでくる。アポロ計画もそのひとつだ。人類がはじめて月に降り立ったという歴史的快挙――だが、その事実は当時の人々にとって、あまりにも現実離れしすぎた事実であって、それが自分の今の生活にどのようにかかわってくるのか、という意味では現実と乖離していた。若き語り手と、彼が生きる世界との距離は、地球と月との距離と同じくらい遠いものとして感じられていた。ただその月は、たしかにそこにあって輝いているという意味で、リアルである。

 そんなふうに考えたとき、本書で語り手に起こった事柄は、自分と世界との関係性になんらかの折り合いをつけること――自分は木の股から産まれた、何からも切り離された存在としてではなく、世界を構成するもののひとつとして、その距離を縮めていくことにつながったのではないか、ということになる。おそらくそれは、私たちがごく幼いころに、当然のものとして両親から得られたはずの、目を閉じても世界は消滅しないという感覚であるはずなのだ。

 けっしてままならない人生に、それでも何らかの折り合いをつけて――あるいはつけられないままに――生きていく人々の姿は、まぎれもなく私たち読者ひとりひとりの人生の縮図でもある。本書については他にもいろいろと語るべきことがあり、また語りたいと思う要素もある。おそらく別の人が読めば、また違った印象や感想が出てくるであろうし、それを許容する「広がり」がたしかにある。そうした要素は、本書を間違いなく名作たらしめるものだと言うことができる。まるで、遠くから眺める月の美しさと、じっさいの荒野に等しい月の表面をともに垣間見るような本書の雰囲気を、ぜひ一度味わってもらいたい。(2015.03.15)

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