【東京創元社】
『ぼくのミステリな日常』

若竹七海著 



 よく「連作短編集」という言葉を聞く。ひとつひとつの作品が短編として独立している純粋な短編集ではなく、たとえば同じ登場人物が複数の物語で活躍したり、ある特定のテーマにもとづいて、短編として独立していながらどこかでつながりがあったりする作品集のことである。前者であれば、たとえば鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』や加納朋子の『ななつのこ』などが、後者であれば北森鴻の『共犯マジック』や佐藤哲也の『異国伝』などが思い浮かぶが、とくに、いっけんすると何の関係もなさそうな短編が収められていると思わせておいて、じつはそれぞれの短編が、より大きな仕掛けをほどこすための要素のひとつとしても機能していることが最後の最後にあきらかになるタイプの連作短編集は、その仕掛けがうまくいけば、下手な長編よりもはるかに読者の記憶に深い印象をあたえることが可能である。

 私の読書傾向はどちらかというと小粒な短編集よりも、ボリュームのある長編を好むのだが、私が日頃から抱いている読書に対するひとつの信念――その本がほんとうに面白いのかどうかは、最後まで読まなければけっしてわからない、という信念をあらためて認識させられるのは、上述のような上質の連作短編集を読み終えたときである。今回紹介する本書『ぼくのミステリな日常』もまた、連作短編集として分類できる作品であるが、もし本書を途中までしか読んでないのに、それで本書の価値がすべて判断できると思って読むのをやめてしまった方がいらっしゃるのだとしたら、それはじつにもったいないことだと言わなければならない。

 二千人もの従業員をかかえ、各地に支店をもつ中堅どころの建設コンサルタント会社ではたらいていたある女性が、なぜか月刊の社内報の製作をまかされ、その社内報に載せる短編小説を書いてくれる身近な人物として、大学時代の先輩の友人を紹介してもらう、という設定でつづられる本書には、あくまでペンネームもない「匿名作家」が書いたものとして、合計12作の短編が収められている。月刊誌ということで、一年をとおして月1作のペースで書かれた作品は、社内報のもくじ(本書にはそれぞれの短編の頭に、社内報のもくじが載せられている)には「匿名作家による連作短編小説」と銘打たれており、当然のことながら私たち読者は、それらの短編集がなんらかのつながりをもっていることを期待するわけである。だが、これらの短編集を結びつけるつながりとは、どんなものなのだろうか。

 まず思いつくのは、登場人物のつながりである。これらの短編には必ず「ぼく」という語り手が登場し、その語り手が他の誰かからちょっとミステリじみた話を聞き、最後に語り手自身が探偵役となって事件の真相を解き明かしてみせる、という体裁をとっている。月に一度刊行される社内報の小説、ということで、たとえば四月であれば桜にちなんだ話、十二月であればクリスマス、一月であれば正月といったふうに、その月の風物詩をうまく絡ませたうえで、かつ短編ミステリを展開していくというのも、ひとつのつながりだと言えるだろう。四季折々の情緒をとらえるのが非常にうまいのだ。そして当然のことながら、それぞれの短編がミステリである、というつながりもある。

 ミステリというつながりでこの短編集をとらえたときには、密室あり、暗号解読あり、叙述トリックありと、小粒ながらミステリでよく使われるトリックの展覧会のような様相を呈しており、それだけでもなかなか壮観なものがあるのだが、じつは本書に収められた12の短編のなかには、ミステリとして成立していない作品がいくつか混じっている。ここでいう「ミステリとして成立していない」とは、謎がありながら明確な解答が提示されていない、ということを意味するのだが、そうなると、前提としてあるはずだった「ミステリ」としての短編どおしのつながりも、同時に否定されてしまうことになる。そして、いったん完璧だと思っていたつながりのひとつが崩れてしまうと、その余震は他のつながりにも影響をおよぼすことになる。そう、これらの短編集で語り手兼探偵役をつとめている「ぼく」なる人物は、ほんとうに同一人物なのか、そして季節感溢れるそれぞれの短編は、ほんとうにその月の出来事を書いたものであるのか、という疑問が、必然的に読者のなかに起こってくることになるのだ。

 はたして、本書に収められた短編集を「連作短編小説」として結びつけるものは何なのか? 作中に統一して出てくる「ぼく」は、匿名作家と同一人物と解釈してもかまわないのか? そもそもなぜ彼は「匿名」であることにこだわったのか? 本書の冒頭で、この匿名作家について「一から話をでっちあげる才能はない」というふうに紹介されており、彼は過去に実際にあった出来事に「思いもかけぬ解釈をやってのける」という方法で短編を書いていく、ということになっている。つまり、彼が書いた短編の底辺には現実に起こった出来事があり、もしそこに匿名作家による「思いもかけぬ解釈」とやらが入っていない、ということであれば、私たち読者がそこを補完してやらなければならないことになるのだ。そして、本書を最後まで読み終えたとき、私たちはまさにその一点においてこそ、すべての短編が「連作短編小説」として結びついていたことに気づくことになる。

 通して読んでいると気がつかないような部分にも意外な伏線が張られていたりして、非常に芸のこまやかなところがあるだけでなく、それ以上に奥の深さも感じさせる作品である。歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』や乾くるみの『イニシエーション・ラブ』を読んだときの、いかにもミステリらしい「してやられた」感も悪くはないが、本書のような奥深さを味わえる作品にも、ミステリ好きな読者はぜひとも手にとってほしいところである。(2005.05.15)

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