【早川書房】
『無垢の博物館』

オルハン・パムク著/宮下遼訳 

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 人が何かの行動を起こすときに、そこに明確な理念や目的をあらかじめ持ちあわせているわけではない。とくに、これまでにない新しいことを成そうとするさいに、そうした理屈が人の頭のなかに確固として存在しているのではなく、まず行動が先にあって、その後に理屈がついてくるのが世の常だ。あるいは、理念や目的がはじめから明確な場合もあるかもしれないが、それらがそのまま実現するとはかぎらない。むしろ思っていたものとは違う何かが生じたりするのも、世のなかの常である。

 たとえば私たちは、言葉の定義としての「恋愛」というものを知ってはいる。だが、たんなる知識としての「恋愛」が、実体験としての恋や愛といった感情になったとき、それが世に言うところの「恋愛」と同じものなのかどうか、じつのところよくわからないというのが正直なところである。なんとなれば、恋愛というものは、まず「恋愛をする」という理念や目的があってそうするというたぐいのものではないからだ。ふと気がついたときに、ある特定の人のことに恋焦がれている自分がいる。それが「恋愛」だと思うのは、自分のなかにあるわけのわからない情動について、とりあえず「恋愛」という言葉をあてはめることで、何らかの心の整理をつける必要があったからだ。そしてそうすることによって、人は恋愛の次のステップへと踏み出すことができる。

 ただし、この「恋愛」という言葉は、物理的なモノの名前というよりは、ある概念に近いものであるがゆえに、ある人に恋焦がれる感情が特別なものであればあるほど、そうした月並みな単語を当てはめることを躊躇してしまう。恋愛小説というのは、個人にとっては唯一無二の恋愛という感情の特別性を、なんとかして言葉で表現せんがために生み出されたものであり、だからこそ私たちはその特別な恋愛の形に憧れるのだが、今回紹介する本書『無垢の博物館』は、ある意味でその究極の形を実現したものだと言える。なぜなら、本書の語り手であるケマル・バスマジェは、たったひとりの女性を愛したというその感情を表現するためだけに、博物館をひとつ建ててしまうような人物だからである。

 では、あの無邪気な行為のもたらす快感のほかに、わたしと彼女を結びつけるものは何だったのだろう? どうして、ああも真率に愛し合うことができたのだろう? ――(中略)――しかし、フェスンと毎日のように、密かに逢瀬と愛を重ねたあの幸福な日々の間、わたしがこうした疑問を抱くことはついになかった。砂糖屋に迷い込んだ能天気な子供のように、ただただその砂糖を貪ったのである。

 ケマルがどうしようもなく愛してしまったフェスンは、彼の遠い親戚にあたる人物であり、婚約者のためにバッグを買おうと立ち寄ったブティックで偶然出会わなければ、その存在すら忘れていたはずの女性でもある。そのとき、ケマルは三十歳。アメリカで経営学を学び、一族が経営する輸入会社の取締役に収まっている、言ってみれば裕福な身分の青年であり、上述したように、引退した大使の娘スィベルとの婚約も決まっている身である。まさに絵に描いたように順風満帆だったはずのケマルの人生は、十歳以上も年下のフェスンとの出会いによって、大きく変転していくことになる。

 トルコ最大の都市イスタンブルを舞台とする本書は、ケマルを語り手とするフェスンとの愛の遍歴を書き綴った恋愛小説という位置づけであるが、ひとつ押さえておかなければならないのは、トルコのなかで根強く残っている貧富の差と、そこから生じる格差の枠組みである。「訳者あとがき」にも書かれていることだが、イスタンブルでは貧富の差によって住む空間がかなり厳密に区切られており、裕福な身分であるケマルと、ブティックの売り子をしながら大学を目指すフェスンのあいだには、まずは資産的な不均衡という壁が立ちはだかっている。もっとも、婚約者であるスィベルについても薄給の公務員の家系であり、一族経営の輸入会社で儲けているケマルの家系とのあいだで釣り合いがとれているわけではないのだが、それでもかつてはオスマン帝国に仕えていた一族という肩書きは、その不均衡を補うだけのものがあると了解されていたところがある。

 何よりアメリカでの留学経験のあるケマルは、西欧的な思考の強い人物であり、トルコの古臭い伝統や因習――女性は結婚するまでは純潔をたもつべきであり、婚前に性的な交渉をもつことを忌避すべき行為ととらえる、ある意味でお固く融通の利かない伝統――にはこだわらない柔軟な精神の持ち主でもある。そして本書が恋愛小説である以上、重要なのは彼と関係をもつ女性であるスィベルとフェスンが、恋愛というものに対してどのような姿勢をとっているかという点である。

 本書のなかで、ケマルはスィベルに対してもフェスンに対しても、婚前に性的交渉をもっている。ただそれだけの事実をとらえるなら、ふたりともトルコ的因習には縛られていないということになるのだが、スィベルの場合、すでにケマルとの婚約をとりつけているという事実が彼女を大胆にしているという点がある。ケマルがスィベルをオフィスに呼び出して、性的交渉をくりひろげるというシーンが本書にはあるが、そこには彼との結婚が確定的という、ある種の保険があるからこそのものであって、そうした保証の何ひとつないフェスンのそれとは大きく異なっている。むしろフェスンのケマルへの愛は、彼が婚約者をもつ身であり、自分と結ばれることがないとわかっているがゆえに、より純粋なものとして引き立てられるものだとも言える。

 とはいうものの、あくまでケマルの一人称によって進められていく本書で私たちに見えてくるのは、フェスンの心理ではなくケマルの揺れ動く心の内だ。婚約者がいて、結婚の前に行なわれる「婚約式」の日程も決まっているという世間体と、フェスンへのけっして変わることのない愛――その葛藤がないわけではないのだが、とにかく彼の心を占めるのは、フェスンのことばかりになってしまう。それゆえにケマルは、まるであたり前のようにフェスンとの逢瀬をつづけるし、婚約式の当日でさえ、フェスンと次の逢瀬の約束をしたりという行動に出たりする。そしてフェスンに会えないとわかると、とたんにあらゆることに手がつかなくなり、はてはフェスンの幻覚を見たり、彼女の残した品物にフェティッシュな慰めを求めたりしてしまう。

 まるで、スィベルとの婚約とフェスンとの愛が両立できるかのようにふるまいつづけるケマルの行動は、ごく客観的に見れば相当に自分勝手なものであり、かつ付き合っている相手に失礼千万な振る舞いでもある。じっさい物語はその後、スィベルとの婚約破棄、身を引く形になったフェスンが他の男と結婚するという、最悪の結果を迎えることになるのだが、それでケマルのフェスンへの愛がどうにかなるわけでないのが、本書の大きな特長である。とにかく本書におけるケマルの愛は、その生涯をかけても不変だという前提が本書にはあり、そのテーマが後に彼が建てることになる「無垢の博物館」の構想にもなっている。

 本書はまぎれもない恋愛小説ではあるが、そこにはケマルとフェスンとの愛の物語が、世間一般の「恋愛」という単語のなかに含まれてしまうのを回避しようとする意図が強くほの見える。上述の「無垢の博物館」構想もそうであるが、何よりフェスンの魅力――ケマルの人生を狂わせるほどの魅力のもとがどこにあるのか、明確な説明のないこともそれに含まれる。私たち読者にわかるのは、彼女が女優を目指せるほどの容貌の持ち主であり、またトルコ社会では軽薄の烙印を押される美人コンテストにも臆せず出場するような、進取の精神にも富んでいて、けっして頭が悪いわけではないこと、しかしそのいっぽうで、ある一面においては極端に頑固なところがあるといった性格面のごく一部だけである。そしてそれは、ケマル自身についても同様だ。彼としても、唯一可能だったのは、フェスンにまつわるあらゆるものを収集し展示した「無垢の博物館」を残すということだけなのだから。しかしながら、それがどけだけの労力を必要とするのかは想像に難くない。

 恋愛の究極の形がその純粋さに拠るものだとするなら、恋愛小説はその純粋さをこそ表現すべきである。そのひとつの方向性として同性愛という要素があることを否定はしないが、きわめて現実的な「結婚」というハッピーエンドが可能な異性愛を扱いながらも、その究極の形を模索した本書を、はたしてあなたはどんなふうに捉え、どんな感想をもつことになるのだろうか。(2014.05.27)

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