【講談社】
『くじらの降る森』

薄井ゆうじ著 



 こんななぞなぞがあるのを知っているだろうか。

「自分のものなのに他人が使うものは何?」

 答えは「名前」――そう、私たちはこの世に生を受けて、まず誰かに名前をつけてもらう。そしてそのことによって、自分が他の誰でもない、自分だけの個人名を持つ、たったひとつのユニークな存在であることを認識する。およそ、この世に名前のないものなど存在しない――逆に言えば、この世のありとあらゆる事物は名づけられることによって明確に区分されており、そのことによって世界の秩序は保たれているのだ。
 だが、いみじくも上述のなぞなぞが示しているように、私たちは、自分がこの世で唯一の存在であると認識するのに、どれだけ名前の力を借りているだろうか。たとえ誰も自分の名前を呼ばなくても、自分が自分であることは自分が何よりよく知っているはずである。自分のものであるにもかかわらず、他人ばかりが使っている名前――あるいは、私たちは名づけられることによってユニークになるのではなく、名前という枠のなかに、その無限の可能性を封じ込められてしまっているのではないだろうか。

 本書『くじらの降る森』には、名前のないひとりの青年が登場する。
 休暇を利用して、半年前に他界した父の別荘にやってきた三田島新太郎は、人手のはいらないまますっかりさびれてしまったその別荘を取り囲む白樺の森の中で、偶然その青年と出会うことになる。他の人にはない、独特の雰囲気を身にまとっているその青年のなかに、なぜか今は亡き父の面影を見出した新太郎は、その青年と、そして青年の生みの親である小池恵子――彼女が一年前に投函した、新太郎の父に宛てた封書を、彼は野ざらしにされていた郵便受けの中から発見する――と会い、話をするうちに、徐々に彼ら親子を取り囲む複雑な事情と、その青年の出生の謎、そして何より、なぜ出生届を出さず、また名前も与えないまま、十八年という長い時間を過ごしてしまったのか、について知ることになる。

 他の子供たちと同様に、当然の義務であり権利でもあるはずの教育を受けていないということ、同年代の友人がひとりもいないということ、そして、名前がない、という事実――だが青年は、それらの事実を苦にするどころか、むしろ誇りにさえ思っているようだ。「誰も、おれみたいな生き方をしていない」と彼はうそぶく。今の学校教育が、けっきょくのところ個性を抑えつけられた、金太郎飴的人間の再生産工場となっているという、けっして好ましくない現実を考えたとき、確かに彼は、今の社会が否応なく押しつけてくるあらゆる束縛から自由であると言うことができる。なにしろ彼は、戸籍上では存在しないことになっているのだから。

 人は、他人がいなければ自分という一個の人格を相対的にとらえることができないものだ。周囲に自分以外の人がいること――そのことによって、はじめて人は、自分自身というものを意識する。自分はあいつより頭が良い、自分はあの子より運動神経がよくない、自分はあいつほど背が高くない……etc、etc。そして、まわりにいる人の数が多ければ多いほど、自分の中にある、他人よりも際立っているところがどうしても突出してしまう。大勢の人たちとの集団生活の場は、自分という個性を見つめる場であると同時に、ともすれば自分を含めた人間たちをランクづけし、結果として突出した個性を潰してしまう場として機能してしまうこともある。

 その青年にとって、自分という個性はどのように意識されてきたのだろうか。彼はけっして世間にうといわけではない。むしろ、他人との関わりあいに消費される時間のすべてを本やテレビによる学習に費やすことができたぶん、他の人たちよりも多くの知識を蓄えているとさえ言うことができる。その青年をとりまく、閉じられた世界――ただひとつだけ言えるのは、その小さな、しかし彼にとってはすべてだったその世界は、他人によってランクづけされることから免れた、純粋に彼だけの世界を築くことに大きく貢献した、ということである。

 青年は、くじらの絵を描く。色とりどりの、大きさも統一されていない、そして一匹として同じことをしていない右向きのくじらたち――芸術というものが、自分の個性を表現するための究極の形であるとするなら、彼の描く、けっして本物とはなりえないくじらの絵は、彼が彼である唯一の存在意義のようなものである。そして、彼の世界そのものである無数のくじらたちは、白樺の森によって閉じられた世界を飛び出して、東京という無尽蔵の混沌をも凌駕していく。

「傷だけを見ていたら、だめなんだ。おれ、やっとそういうことに気がついたんだ。ずっと、ネガティブにものを考えていた気がする。とくに東京へ出てからは、自分がしていることを破壊したり汚しているだけの作業だと思ってた。でもそれは、つぎの誕生につながらなくちゃ、意味がない。……」

 名前のないことが、けっして幸福であったとは思わない。だが、たとえ戸籍上では存在していないことになっていたとしても、その青年がはぐくんできた、けっして誰にも到達することのできないひとつの小宇宙は、きっと読者の心に何かしらの想いを刻み込んでゆくに違いない。(1999.11.23)

ホームへ