【偕成社】
『神の守り人』

上橋菜穂子著 



 幼い子どもだったころ、両親や学校の先生といった大人たちが、ことあるごとに自分たちを詮索し、あれをしろ、これをするなと口うるさく言ってくることがこのうえなく煩わしいと思ったことがある。これはおそらく、私だけでなく誰もが多かれ少なかれもっているであろう記憶だが、大人になった今にして思えば、自分たちの行動に制限をかけられるという不自由さゆえに、子ども時代の私たちはこのうえなく自由だったのだと実感している。不自由だったのに自由、というのは矛盾した言い回しではあるが、ようするに、身近な大人たちの庇護のもと、かつての私は子どもであることを思う存分享受することができた、ということである。

 言うまでもないことだが、子どもというのは身体だけでなく心も未成熟であり、経験も不足している存在だ。それは、いろいろな意味で子どもは弱い立場にある、ということでもある。よく、子どもであっても犯罪行為には刑事罰を与えるべきだ、などという主張を聞くが、本来弱い立場であるはずの子どもたちに、大人の都合を斟酌することは間違いなのだ。まだ何が正しく、何が間違ったことなのかを充分に判断できない子どもに、そんな論理を適応してしまっては、子どもは何もできなくなってしまう。子どもであるということは、不自由なことではあるが、同時にそうした判断を考慮しないままに行動することを許されている存在でもあり、だからこそ自由にふるまうことができるのだ。

 子どもが子どもらしくあることができるというのは、彼らに与えられた最大の権利である。だがそれには、彼らが「弱い立場にある」という大前提がつきまとう。もし、子どもであるにもかかわらず、大人以上の大きな力を振るうことができるとしたら、その力の大きさゆえに、彼らは子どもであることを許されなくなってしまう。本書『神の守り人』は、女用心棒バルサを主役とする「守り人」シリーズの四作目にあたる作品であるが、物語全体の構造だけを見てみると、シリーズ一作目の『精霊の守り人』の流れを髣髴とさせるものがあり、『精霊の守り人』におけるチャグム皇子の立ち位置にあるキャラクターとして、今回あらたに登場するのが、アスラという名の少女である。

 薬草師であり、呪術師見習いでもあるタンダの誘いで<ヨゴの草市>を訪れたバルサは、その夜の宿で人買いたちが見えない鎌のようなもので次々と惨殺されるという光景をまのあたりにし、バルサも負傷してしまう。同じ宿に泊まっていたロタ王国の呪術師スファルの話によれば、人買いたちの商品にされそうになっていた兄妹は<タルの民>と呼ばれる者たちで、その民のなかには異能の力を発揮する者がよく現われるのだという。そして今回、アスラという名の少女が振るったその力は、少し前にロタ王国のシンタダン牢城で起きた虐殺と手口が同じものであり、彼らはその原因を調べていたところだった。

 詳しい事情を知らない以上、余計なことに手を出さないようスファルから釘をさされ、またアスラの魂をのぞき見たタンダも、そのなかに宿る何かに尋常ではないものを感じたものの、まだ十二歳の少女にすぎないアスラを捕え、殺そうとしているスファルたちの行為を見逃せないバルサは、結果的にアスラをつれて逃亡することになる。<タルの民>の秘密と、ロタ王国建国とのかかわり、そしてアスラに宿った強大な「神」の力――ロタ王国の創生と、異世界<ノユーク>(ナユグ)とに深くかかわっていくことになる本書において、今回アスラがその身に宿すことになったものが、あまりに大きすぎる力であるという点が、まず目を引く特長のひとつである。

 アスラの境遇の不幸が、ナユグの生き物をその身に宿してしまったことから発生していることは間違いないところであるものの、それであれば、『精霊の守り人』におけるチャグムの境遇と、基本的には同じものだ。しかしながらチャグムの場合、精霊がどうのというよりは、むしろ新ヨゴ皇国の皇族に連なる者という立場のほうが問題であり、彼の命の危険についても、その地位の高さゆえのものという印象があったのに対し、アスラにとりついたタルハマヤは、文字どおり彼女を殺戮者にしかねない、実質的な国の危機を招くものである。かつて、タルハマヤを宿した少女が君臨した太古の王国ロタルバルは、その圧倒的な殺戮の力で民を支配する血塗られた最悪の時代だったと伝えられている。どんな屈強な軍隊も無力に等しい、それこそ核兵器並みの力が、たった十二の女の子に与えられてしまったという点こそが、アスラの不幸の根幹にはある。

 上述したように、子どもというのは弱い立場にあるからこそ子どもであって、強大な力を行使できる子どもは、もはや子どもでいることは許されない。そして本書を読みすすめていくとしだいに見えてくることになるのだが、そんなアスラのサーダ・タルハマヤ<神とひとつになりし者>としての力を、国を変えるために利用しようとする者がいる。南部の大領主と、北部の氏族との確執や、王家の思惑、<タルの民>の思惑などが複雑に絡み合うなか、アスラは未熟な子どもであるにもかかわらず、大きな力をもったせいで、下手をすれば大勢の命にかかわる決断という、このうえなく重いものを背負わされてしまうことになる。そしてそんなアスラの境遇に、バルサは自身のかつての境遇とを重ねずにはいられない。

「ただ、どうしてもゆるせないのは――シハナや、あの子の母親までもが、よってたかって、あの子に、人殺しをしろと、そそのかしていることなんだ。」

 養父であるジグロとともに過酷な運命を生き抜き、自身も用心棒としてかつては多くの人の命を奪ってきたバルサだからこその、けっして理屈などでねじ伏せようのない視点が、そこにはたしかにある。そして同時に、アスラという少女を救うためには、たんに命を救うというだけでは足りないことにも、バルサは気づいてしまっている。はたして、アスラは本当にサーダ・タルハマヤ<神とひとつになりし者>となってしまうのか、そして人を殺さずに生きることをおのれに課したバルサの思いは、アスラの心に届くのか。

 チャグム皇子を主人公とする外伝『蒼路の旅人』を読んだときにも感じたことだが、本シリーズの中心は、次第にナユグといった異世界とのつながりよりも、むしろ人間たちの生きる世界、そこに生きる人と人とのつながりのほうに主軸が向きつつあるように思える。そしてバルサ自身もまた、これからどのように生きていくべきなのかを模索しているようなところがある。著者自身が「あとがき」でも述べているように、「アスラという一人の少女に<来訪>した「神」と、人びとがどのようにむかいあい、そして、アスラの人としての魂が、どんなふうに<帰還>するのか」、ぜひともたしかめてもらいたい。(2009.10.22)

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