【新風舎】
『ミレニアムのイエス』

レイノルズ・プライス&ケネス・ウッドワード著/西川晃充訳 

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 ただ一人最も力を獲得した人物が――ここ二千年においてだけでなく、これまでの人類の歴史において――ナザレのイエスだった、ということを否定することは、相当特別な考えを必要とする。

レイノルズ・プライス「ナザレのイエス」

 この言葉が、日本に生まれ、キリスト教の洗礼とも、信仰ともまったく無関係に生き、仏教の法事や葬式の形があたり前のものだと思いこんでいる私にとってさえ、けっして無視できないものであることを、認めなければなるまい。それはたんに、キリスト教が世界の歴史に与えた影響の大きさのことばかりでなく、私自身の――そしておそらく大部分の人たちの――個人的体験においてさえ、じつにさまざまな形でキリスト教の影響下から逃れられない立場にいる、ということでもある。

 私自身の個人的体験を語るなら、最初にキリスト教というものを意識したのは、子どもの頃に放送されていた、旧約聖書および新約聖書の物語をアニメ化した番組を通してだった。今となってはそのタイトルさえ覚えていないが、私が小学校高学年くらいの時期に放送されていたそのアニメは、あるいはオイルショック以降、限りなく続くと思われていた高度経済成長の陰りを、そしてそこから漠然と人々の心に生まれてくる未来への不安を、いち早く察知していたのだろうか。だが、人類の罪を背負って十字架にかけられたイエスの姿は、私にとってはひとかたならぬ恐怖の対象として、記憶の底に植えつけられる結果にしかならなかったように思う。

 それから時は流れ、1999年、システムエンジニアという職種を与えられた私は、コンピュータに深刻な誤動作を引き起こす「西暦2000年問題」という形で、再びキリスト教というものについて意識されられることとなる。本書『ミレニアムのイエス』は、世界がイエス生誕から2000年を迎えようとする世紀末において、世界中のメディアが取り組んだキリスト教に関する特集記事のなかから、とくに訳者が「斬新で刺激的な内容」だと見なしたふたつの記事を載せたものである。

 アメリカの「タイムズ」に載せられた、レイノルズ・プライスの「ナザレのイエス」という記事は、イエスを歴史上の人物としてとらえたときに、そこから垣間見えてくるイエス本来の姿を、現存する正典四福音書の解釈をもとに浮かび上がらせようとするものだ。処女懐妊からはじまって、悪魔の誘惑、最後の晩餐、そして復活といった、私たちにもおなじみのシーンを通して彼が見出したのは、父親のわからない庶子として育った大工の息子が、自分の父親の姿を神のなかに求めようとする、極めて人間臭い救世主の姿である。そしてもうひとつ、「ニューズウィーク」に載せられたケネス・ウッドワードの「イエスの二〇〇〇年」は、キリスト教が人々にどのような影響をおよぼし、人類の歴史のなかでどのような役割を担っていったのか、ということを再考し、そこから第三ミレニアムたる21世紀におけるキリスト教のあるべき姿を映し出そうとする試みである。

 このふたつの記事に共通して言えるのは、どちらもイエスやキリスト教を信者としてではなく、あくまで冷静な観察者、研究者として、その正しい姿を明らかにしようと模索している、ということだろう。とくに、「ナザレのイエス」におけるイエスの言及については、彼を神の子と信じる敬虔な信者や聖職者にとってはとうてい賛同できかねるものであろうことは容易に推測できるのだが、だからといって、これらの記事を書いたふたりが、キリスト教そのものを、神の救いをまったく信じていない、と考えるのは早計だろう。むしろそこには、歴史的事実を知りたいと望みながら、それでもなおキリスト教の宗教的意義を肯定し、神の奇跡やその救いを信じて疑わない姿勢がありありと感じられることに、読者はおそらく気づくことになるだろう。

 人間の力の産物でもある科学技術が地動説を証明してみせてから、科学と宗教とはけっして相容れない両極端として対立してきた、というのが一般的な考えであった。しかし、20世紀も終わり近くなって、科学は、たとえばマイクル・コーディの『イエスの遺伝子』のように、イエスの実像や、その奇跡の力について科学的に解明していくことをテーマにした小説や、瀬名秀明の『BRAIN VALLEY』のように、臨死体験や光溢れる神のイメージを、ミクロコスモスたる人間の脳の中に見出そうとする小説にも見られるように、いったんは自身が殺してしまった神の存在に、あらためて光をあてようとする試みがなされつづけられている。それがけっしてフィクションだけの話でないことは、訳者である西川晃充がその訳注において述べているとおりである。それはあたかも、神をも超えたと奢った小さな生命が、自身のあまりの卑小さ、無力さといったものに打ちのめされ、再び自分たちが依るべき大樹を求めようとしているかのようにも見える。

 そう、私たちは愚かで弱い存在なのだ。たとえ普段どれだけ強く生きようとしても、またどれだけ現世の富と名声を手に入れても、ちょっとしたことが容易にその人の心を砕き、あるいは心の闇の支配下にはいってしまう。清貧であること、「神の国」のもとに、永遠の生命が約束されると信じること、そして弱者を憐れみ、罪人を許すこと――その無限の寛容をその根底に置くキリスト教の教えは、たとえ時の権力者たちによって都合のいいように解釈され、十字軍や魔女裁判といった暗黒を生み出した事実をもってしても、やはり偉大な業績だと言わなければなるまい。人間の頑なな心は、ときに相手を許すということを限りなく困難なものにする。しかし、許す心を知らなければ、相手を救うことはできないし、自身もまた救われない。あるいは、本書の記事を書いたふたりは、イエスの言葉のなかに、そのような精神を見出したのではないだろうか。

 私には宗教に関する詳しい知識はない。しかし、21世紀最初の世界的悲劇となった、ニューヨークのテロ事件に、アメリカ政府が国のメンツをかけて報復すると公言したとき、圧倒的な国民の支持が集まる一方で、力に力で対抗するやり方に反対を叫ぶ人たちが世界じゅうにいるのだ、ということを、私はニュース番組のなかで知った。第三ミレニアムを迎えたキリスト教が、今後どのような方向を目指していくことになるのか――その答えは、あるいは本書の中にこそあるのかもしれない。(2001.10.11)

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